掲載日 : [2019-05-22] 照会数 : 6886
「韓日交流」植民地統治下でも…朝鮮書画を媒介とした信頼の絆
[ 「朝鮮人士との交流を中心に」講演する金貴粉さん ]
王朝期の官僚が寄贈 佐野市郷土博物館
須永文庫資料展 在日3世講師に
【栃木】朝鮮王朝期の官僚たちの残した貴重な和洋書、漢籍、書画などが「須永文庫資料展‐日韓の近代」と題して佐野市郷土博物館で企画展示されている。同文庫は1万数千点におよぶ膨大な資料で構成されている。この中から特に須永元(すながはじめ)が交際した朝鮮の人々の資料を中心に、韓日の近代を振り返るというのが今回の企画の趣旨だ。
須永元は1868年、現在の栃木県佐野市で豪農の長男として出生。年少期から漢詩文を学んだ。1886年から日本に亡命してきた開化派と呼ばれる金玉均や朴泳孝などと親交を結ぶ。須永は「清からの独立を求める朝鮮人の心情や文化が理解できる数少ない日本人」として信頼を集めた。
扁額「道契(けい)ならば則(すなわ)ち霄壌(しょうじょう)も共に処り」は金玉均から初めて贈られた書。須永は金玉均の書や手紙を特別に整理し、保管していたという。
三・一独立運動当時、民族代表33人のうちの1人として独立宣言書の筆頭に署名した呉世昌からは、須永の「主義精神に共鳴」して服役中に詠んだ詩「蒼海(そうかい)は六瞀気象(ろくぼうきしょう)を瞻(あおぎ)みる」を贈られた。
須永文庫には黄銕に関する書画も多く、須永と特に親しかったことが分かる。
黄銕は1897年、須永の結婚を祝う書を贈った。1910年の韓国併合で官職を辞任すると、日本に渡って書画に専念した。黄銕が亡くなると、須永は自らの菩提寺である妙顕寺に墓を設け、篤く供養した。
関連行事として須永文庫資料展を記念しての講演会が12日、佐野市郷土博物館で開かれた。講師は在日3世で「植民地期朝鮮半島の書芸史」を研究している金貴粉さん(ハンセン病資料館主任学芸員)。地元の郷土史家らを相手に「須永文庫における朝鮮書画について‐朝鮮人士との交流を中心に」と題して約90分間にわたって解説した。
金さんは「韓日間には過去に不運な歴史はあっても、朝鮮書画を媒介とした交流があった。それが佐野市に作品が保存されていることは貴重なこと。なぜ、作品がここにあるのか。作品の背後にあるものを大切にしてほしい」と呼びかけた。
金さんによれば、「ここまでまとまった形で朝鮮の書芸作品が残されているところは韓国にもない」という。韓国国立中央博物館で開催中の近代絵画についての展覧会で須永文庫の主要作品が展示されているが、これは金さんが橋渡ししたもの。6月16日まで。問い合わせは佐野市郷土博物館(0283・22・5111)。
(2019.05.22 民団新聞)