掲載日 : [2019-05-22] 照会数 : 6346
時のかがみ「憶良の吹かれた風に」…キム・英子・ヨンジャ(歌人)
[ 嘉麻市・鴨生憶良苑の歌碑(嘉麻のおくら短歌同好会提供) ]
令和典拠の梅の宴 言いしれぬ縁思う
「嘉麻のおくら短歌コンクール」は全国の小中学生から1千首以上の作品が集まる。主催は嘉麻のおくら短歌同好会。「おくら」とは『万葉集』の代表的歌人、山上憶良のことだ。8世紀に筑前国守として現在の筑豊へ来ている。飯塚市にも憶良と大伴旅人の歌碑があるが、嘉麻市には憶良の歌碑が15基も立つ。憶良がこの地で撰定した「嘉麻3部作」があるからだ。私は同好会による短歌講座の講師とコンクールの選者を務めている。
私が憶良への関心を強めたきっかけは中西進先生の『悲しみは憶良に聞け』だ。「憶良は『在日』だった」と表されている。憶良は42歳で遣唐使となるが、それまでのことは不明である。『万葉集』研究の第一人者と言われる中西先生は、憶良の父は百済の宮廷医で国が滅亡した時に幼い憶良と日本へ渡ってきたとの説を掲げる。唐へ発つ時は無位だったが帰国後に従五位下として貴族の仲間入りを果たし、伯耆国守や皇太子の家庭教師を務めた。
その憶良が筑前国守となって大宰府へやってきたのは67歳頃。現在では87歳に相当する年齢で任命されたのは韓半島との情勢が不穏だったことが大きい。韓中日の3カ国語ができるので遠朝廷(とおのみかど)の大宰府で外交を担ったと考えられている。
そこへ大宰帥(だざいのそち)として赴任したのが大伴旅人である。同じ60代の2人は触発しあって新しい文学を作り出した。他の官人や僧らも加わって後に筑紫歌壇と呼ばれる活発な詩歌の場が生まれた。
その序文が新元号「令和」の典拠となった「梅花の歌」は、730(天平2)年の正月に旅人邸で開かれた梅花の宴で九州の官人ら32人が詠んだ。当時の大宰府はアジア、ヨーロッパやペルシャからの往来もある国際都市で、宴には憶良をはじめ渡来人の薬師(医師)張福子もいた。この宴は背後に都での政変があり、内外の緊張状態の中で行われたものだ。現実の政治を離れて皆で舶来植物の梅を題として詠い継いだ。
けれども万葉歌人の中で子どもや貧しさや老いを詠んだのは憶良だけだ。
銀も金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも
たとえば嘉麻3部作の中の有名なこの歌は、単にわが子がかわいいと手放しで言っているわけではない。そこには仏教や儒教に精通した憶良が子への愛と苦しみ多い世の中を見据えて出した考えがこもっている。
人生を真摯にみつめた憶良は人の死や農民の窮乏にも深く心を寄せて多くの詩歌を残した。その憶良の人生を思う。
百済生まれかもしれない憶良には出会うべくして出会った気がしている。私のルーツと、筑豊に生まれたことと、うたを詠むこと。別々のように見えることが憶良によって一つにつながったのである。
在日の心を知るという憶良吹かれし風にわれも吹かるる
(2019.05.22 民団新聞)