掲載日 : [18-11-16] 照会数 : 11938
70年代市民運動が覆した「三韓征伐」の神話
[ 在日韓人歴史資料館「土曜セミナー」で講演する李成市館長 ]
神功(じんぐう)皇后が古代の韓半島南部を支配したとされる「三韓征伐」。『日本書紀』が完成した720年から1200年以上にわたって語り継がれ、近代以降は日本人の「国民的」な常識ともなってきた言説がここ20、30年で覆されたのはなぜか。古代東アジア史、朝鮮史を専門とする早稲田大学の李成市教授(在日韓人歴史市資料館館長)が10日、第113回土曜セミナーで解き明かした。
神功皇后が仲哀天皇の急死を受けて摂政に就任したとされるのは紀元201年。神託を受けて筑紫から韓半島に渡り、馬韓(後の百済)・弁韓(のちの任那・加羅)・辰韓(のちの新羅)を攻め、降伏させたと『日本書紀』『古事記』が伝えている。
こうした言説は江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎で大衆に広まった。幕末から明治期にかけては神功皇后を補佐した竹内宿禰とともに日本人の戦意高揚に向けた「つくられた報道資料」錦絵の図象となり、韓国半島への経済進出を図った大正期にかけては肖像画が紙幣にも登場した。
この「根強い神話」は70年以降、市民による歴史運動によって覆されていく。李教授は「72年以降の高松塚古墳の壁画発見と、広開土王碑改ざん説が決定的な契機となった」と強調。その以前から唱えられていた江上波夫氏の「騎馬民族征服説」や金錫亨氏の「分国論」(「三韓三国の日本日本列島内分国について」)という2つの問題提起をクローズアップさせることにもなったと述べた。
広開土王碑改ざん説については学会で否定されたが、李教授は「問題提起そのものが重要」との立場。「分国論」についてもアカデミズムの世界でこそまったく賛同者は現れなかったものの「日本列島から朝鮮半島という国民的記憶を根底からひっくり返した」と述べた。
これが後の「東アジアの古代を考える会」の結成につながり、古代の日朝関係史の再検討を学会に問う。「70年以降の市民による歴史運動が、近代歴史学によって国史という国民的物語として共有されていったものを解体していった」。