国籍の多様化が進む在日同胞社会で昨年、結成40周年を迎えた在日韓国青年会(朴裕植中央会長)では記念事業の「在日青年共育フォーラム」を開いた。会員たちは、「在日青年マイストーリー」を通じて、「在日」の意義に目覚め、青年会に関わるようになった経緯を語った。韓半島にルーツを持つことを共有している3〜4世たちの「自分史」を紹介する。
積極的に話す機会を
朴成華さん(青年会福岡本部会長).jpg)
1世の祖父が戦時中に労働のために渡日した兄弟を追いかけて、八幡の町に移り住んだということを父から聞きました。
私が生まれた時は父方の祖父は亡くなっていたのですが、父から聞いた話では建設業とかを始めて、同じ敷地内で親戚中で暮らしたそうです。幼少期の頃ですけど、移り住んだ時に立ち退きになって、次に住んだ市営住宅の住民全員が在日同胞というような状況で、不思議とそれに関しては全く違和感はありませんでした。
親戚の結婚式ではじめてチマ・チョゴリを着たりとか、韓国語のお祝いの歌を歌わされたりとか、そういうことはありました。正月や法事とかで親戚中が集まるのが在日らしさなのかなと感じていたんですけど、私自身は日本語しか話せなくて。ただ親戚との付き合いの中ではあいさつとか、知らず知らずのうちに文化には触れてきたと感じています。
大学時代には社会福祉を専攻していました。成人式を前に、その当時の支部の会長が3度も自宅訪問に来てくれたのをきっかけに青年会に参加するようになりました。
この段階では正式書類の国籍欄に「韓国」と書くくらいで、在日ということを感じることもなく生活をしていました。
青年会では、運営側からすると嫌がられる一般青年なんですけど、勝手にドタキャンをしたり、泊まりの行事は嫌だと言ったり。誘われても自分から積極的に行事に参加するということはなかったです。今考えると諸先輩方に申し訳ないことをしたなと思っています。
私は20歳から15年くらい青年会にいるんですけど、2012年にその当時の会長に頼まれ断れなくて宣伝部長から始め、その後副会長を経て、2016年に福岡県では女性初の会長に就任しました。
2013年、市民公開講座を開催した時に事前学習とかで今までの歴史などを学ばさせていただき、青年会ってそんなことをしてたんだなと思いました。私自身が青年会の魅力について聞かれたら、たくさんありすぎて答えることができないような状態です。
今後、在日の青年として、どういうふうにしたらいいのかについて考えることはあります。逆にこれまでを振り返ると、もっと積極的に話せば良かったとか、今までの歴史を考えても母方の祖父が生きていたときに、もっとたくさん話を聞けばよかったなと後悔しています。
同じ世代の人たちがこうやってひとつの場所で話す機会は少ないと思うので、積極的に話してほしいと思います。
今、期待されているのは若いパワーだと思うので、がむしゃらに頑張って行こうと思っています。
〞枠〟を飛び出して世界を見てみたい
朴美花さん(青年会東京会員).jpg)
両親ともに在日韓国人の家庭に生まれ、幼い頃から自分は在日韓国人だと強く思いながら生きてきました。特にその思いが強かったのが高校生の時で、学校では通名から本名に変え、在日についていろいろと調べるようになりました。
そんな時に知ったのが青年会です。さまざまな行事に参加し、さらに在日としての思いが強くなった私は、1年間韓国に語学留学をしました。留学を決めた理由は韓国語を話せるようになりたいという思いと同時に、母国とはどのような国なのか気になったからです。
実際に韓国へ行ってみると、在日という存在を理解してくれる韓国人はほとんどいませんでした。
私は在日韓国人も韓国人も同じで、母国は韓国だと思っていましたが、それを現地の韓国人の方に伝えたくても韓国語をうまく話せず、ずっと日本に住んでいる私を見て逆に、「日本人でしょ」と言われてしまいました。
そして在日の歴史などを説明しても、理解してもらえなかった瞬間、私の国籍は何なのか、母国はどこなのかという思いと同時に現地の韓国人から在日は日本人として見られているんだという寂しい気持ちになりました。
日本に戻ってからも青年会には参加していましたが、最近になって在日としての自覚がない人や帰化をしたという話をたくさん聞くようになりました。
留学をする前は、在日は在日であって帰化など考えられないと思っていましたが、留学での体験などを通じて、いつまでも在日韓国人に執着していてはいけないのではないかとも考えるようになりました。
日本で生活するにあたり、韓国でも日本でも理解されにくい「在日韓国人」という存在が、日常生活に支障をきたすのならば生活しやすいように変えていってもよいと感じました。
しかし、在日としての歴史、ルーツは忘れず自分がどういう立場なのかをしっかりと見つめて、在日という枠を飛び出して広い視野で世界を見られるようにこれから生きていきたいと思っています。
青年会を通じ仲間も伴侶も
韓奨さん(青年会埼玉本部会長).jpg)
小さい頃から野球とテコンドをやっていました。僕は韓国籍で大学生のときにテコンドの日本代表に選ばれて、2012年のロンドンのオリンピック候補までいったのですが、韓国籍ということで代表選考会から外されました。このときの体験が僕の中では根深く残っています。
日本代表の合宿で韓国の大邱に行った時に、韓国の代表チームと合同練習を行いました。韓国語ができたので、コミュニケーションを取っていると、「在日の奴が日本代表にいるぞ」としこたまいびられ、いじられ、まわされというのがあって、その時に僕は日本人でもなく韓国人でもなく、在日なんだなっていう考え方が芽生えるようになりました。
元々、僕は学生会出身で19歳の頃から、青年会にも一緒にお世話になっていたんです。ハラボジが5年前に亡くなりました。最後に会ったのが、大学生だった19歳のときに初めて行った埼玉の母国研修です。こういう機会を与えて下さって、最後にハラボジと会える機会も与えてもらいました。
最近結婚をしました。嫁さんも在日で、学生会の後輩でKSJWで出会ったのが最初です。
学生時代は学校の先生になりたいなと思って、教育免許の課程を取っていました。その際に3・11が起こってボランティアで宮城の気仙沼に夏休み、春休み、冬休みの時に行って、現地の子どもたちと交流をしました。その中に在日の子がいて仲良くなったりとか、そういう経験をしました。
教育実習の時も在日の子もいたり国際学科みたいなものがあって、そこに韓国の子たちもいました。その場所で自分の話をさせていただいたりとか、そういう経験が今、とても活かされていると思います。
2001年、僕が小学校4年生の時に、新大久保駅で男性が転落して、それを助けようとした日本の方と李秀賢という韓国の留学生が亡くなり、その話が小学校の頃に道徳の教科書に載っていたんです。その時から在日という自覚があって、すごく誇らしく思っていました。
僕は教育関係の仕事に就きたいなと思って学生時代を過ごしていたんですけど、社会人経験を積んでからなりたいという思いがあって、韓国企業の日本支社の営業でサラリーマンをやっています。ただ、少しでも韓国と日本の懸け橋となるような仕事ができればという思いは今も強く思っています。
「兄弟」と呼べる仲間ができたりとか、お兄ちゃん、お姉ちゃんと呼べる先輩ができたりとか、弟・妹と呼べるようなかわいい後輩ができたりとか、一生愛し続けるようなパートナーができたりとか、青年会はそういうことができる場所だと思う。
そういった貴重な経験ができる場所を与えてくれた民団に少しでも役立てられるように今後、頑張っていければなと思っています。
留学で貴重な体験
金高子さん(青年会京都本部総務部長).jpg)
在日2世の父と本国から嫁いだ母の間で育ち、中学に入学するまでは通名だけで生活をしていました。在日ということは幼いながらも法事や親戚訪問を通じてうっすら感じていましたが、それを深く考えることはありませんでした。
韓国語は中学2年生の時まで全くできませんでした。民族学校に入学したけど本名で韓国語を使う環境に慣れず、毎日苦労しました。同級生の中でも在日の意識が低く、成すがままに学校生活を送り、本名は学校以外では全く使いませんでした。
だけど、家族に連れられて民団の行事などには参加していました。また、韓国文化を習うということが在日にとって必要不可欠と思い始めたのは、韓国語の読み書きができるようになった頃からでした。韓国語が話せなくても、生きていけると確信していたにも関わらず、いざ韓国語が自然と身についてからは考え方が変わりました。
部活動では韓国舞踊や韓国文化についてもたくさん学ぶ機会があり、勉強だけではなく文化を学ぶ楽しさを知りました。そして、言葉や文化をもっと身近で深く感じたいと思い、韓国留学を決意しました。
留学当初は、馴染めなくて大変でしたが、初めてサークルに参加し、コーラス部の部員として活動を重ねていく上で、在日としての意識が高まりました。学業やサークル以外にも、韓国政府の安全行政部大学生ブログ記者団の活動を通じて、政府の行事を取材したり陸軍体験も行いました。そのほか、テレビに5回ほど出演し、現地の人たちが経験できないこともしました。
なぜ韓国で4年間生活できたかというと、それはやはり韓国で出会った在日や常に支えてくれた民団や青年会のおかげです。もちろん現地の人の交流だけではなく、在日の留学生仲間が集う、在日韓国人韓国修学生会では会長をやらせてもらいオリニジャンボリーなど、多数の民団行事にリーダーとして参加しました。民団に貢献したいという気持ちは、青年会の影響が少なからずありました。
たまたま留学に行き、「韓国国内での在日社会」にいましたが、普通の青年は日本国内で在日社会の中心に立っています。
青年会の活動を行うことは、在日である自分自身を認め、同じ境遇の人とのつながりを大切にしたいから。青年会の活動を通じて学んで経験したことを次世代の子どもたちに伝えていきたい。
留学当時は在日としての意識が確立していなかったので、韓国にいれば韓国寄りの考えになり、日本にいれば日本人のような考え方になりましたが、それは自然なことだと思います。これからは在日としての軸をしっかりと持ち、良い考えを吸収し、補いながら日々を過ごしていきたいと思います。
この場にいる全ての人が繋がりを大切にし、母国研修や留学などの過程を通じてルーツを体験し、考える機会が恵まれることを祈っています。
取材での出会いから韓国との距離縮まる
高晴美さん・「みんなのKテレビ」プロデューサー.jpg)
在日4世の高晴美さん(32)は、父の哲明さんが代表を務める映像制作会社「イル‐ジョン」で総務部人事課に籍を置く一方、同社が民団や道民会、婦人会などの各種行事の動画を無料配信する「みんなのKテレビ」のプロデューサーとして現場を飛び回っている。
教師を目指していた大学時代、高校でバレーボールのコーチをしていた時に目にしたのは、「子どもたちと接する時間よりも、他の仕事がメーンになっているような教師の姿」。自身が抱いていた理想の教師像とのずれに、「教師は今でなくてもいずれ出来る」と判断した。
大学4年のとき、父親からアルバイトに誘われカメラアシスタントに。卒業後もそのまま就職した。1年半に及んだ出向先の制作会社では「仕事に妥協しない姿勢を学んだ」。だが出向が終わって元の会社に戻ると、「燃え尽き症候群」のような状態になり、3年後に退職した。
その後数年、OL生活を送る。ある日、父親の背中が小さく見えた。弟2人も同じ会社にいるが継ぐにはまだ早い。「父と弟たちのクッションになるのは私しかいない」と復帰を決意した。
高さんを含む兄弟6人は日本の学校教育を受けてきた。民族教育を受けたことはなく在日との付き合いも全くなかった。2014年4月から開始した「みんなのKテレビ」の撮影で初めて民団を訪れた時は、国民儀礼を知らなかった。「どこに行っても国民儀礼をすることに驚いた」
撮影現場に出向き、いろいろな人と知り合っていく中で青年会の存在を知った。「一昨年、撮影チームとしてオリニジャンボリーに行く前に青年会の母国訪問があるという話を聞いて、友だちを作ってみようかなってくらいの気持ちで申し込んだ」
子どもの頃にいじめられたり、韓国人というのを隠したこともあった。「私だけじゃなかったんだ、こういう気持ちを持っている人は」。距離はあっという間に縮まった。
オリニジャンボリーでは「教師の気持ちを味わうことができた。青年会で自分より若い子をまとめる時にも、大学時代に学んだ教育学というのは役に立っている。無駄だったことは一つもないと思っている」。
昨年6月、青年会東京本部の執行部に入り、宣伝部長を務めている。取り組むべき課題は多い。今、その方策を立てている最中だ。
最近、仕事で現場をまわると「どこに行ってもいるよね」と言われることが増えてきた。「仕事って人と人との触れ合いですよね。いろいろな人と出会って可愛がってもらったり、叱咤激励をいただいたりすることが今一番嬉しいし、やりがいにつながっている」
(2018.01.01 民団新聞)