在日差別の撤廃は信念…日韓友好への大前提だ
「参政権」諦めてはダメ…いまこそ太いパイプを
衆議院議員8期、参議院議員2期を務めた公明党副代表の草川昭三さんが政界を勇退する。有権者からは「市民目線の政治家」として慕われ、政界では党派を超えた信念の人として一目置かれてきた。彼をよく知る同胞たちは異口同音に、「常に弱者の目差しを忘れない稀有な存在」と語る。かくしゃくとした立ち居振る舞いが年齢を感じさせないだけに、惜しむ声がなお消えない。
草川さんの35年におよぶ議員活動は、在日同胞や韓国とのかかわりを抜きには語れない。
「一番に思い出すのはサハリン残留韓国人の帰還問題です。在日大韓婦人会の幹部の案内で、夫がサハリンから帰還できないままのご婦人と会ったとき、『子どもとサハリンに行き、夫に会いたい。入国できないなら、荷札を付けて私を送ってくれ』と訴えられた。これには本当に参りました」
日本敗戦時のサハリン(旧樺太)残留同胞は約4万3000人。日ソ共同宣言(56年)にともなう引き揚げでも、日本人妻を持つ同胞とその家族1541人以外は除外された。引き揚げ者の在日組織や韓国の留守家族会が連携し、これに民団や婦人会が加わって帰還運動が続けられていた。事態を打開する展望はなく、関係者にあったのは「絶対あきらめない」という思いだけだった。
草川さんは82年3月の衆院予算委で、「強制連行され炭鉱で労働させられた約4万人の韓国人は、望郷の念を抱いているにもかかわらず、帰国の手段がなく放置されている」と指摘し、鈴木善幸首相から「粘り強く、あらゆる観点から努力する」との答弁を引き出した。
サハリンに乗り込む
しかし、それは文字通り努力目標に過ぎず、悲観的な状況に突破口は見えていなかった。それでも、「これはどうなってるんだ」「世の中にこんなことがあっていいのか」と思ったら、動き出さずにいられないのが草川さんだ。
「83年7月にサハリンに行きました。墓参団の船が出ることを知って便乗したんです。国会議員ということで副団長にされ、そのおかげで現地の党第一書記と会えた。『誰にも帰りたい故郷がある。帰還させるべきだ』と言ったら、『内政干渉だ。朝鮮半島出身者も幸せにしている。日本人が余計なこと言うな』とけんもほろろでね。でも、おめおめ引き下がれますか? 『ソ連には自由があるだろう。だったら旅行の自由があるはず。自分が責任を持って招待する。その方式だったら問題ないだろう』と食い下がった」
「結局は、毎年10人を招待することで合意します。ところが、その年の9月、ソ連がサハリン上空で大韓航空機を撃墜する事件(269人死亡)が起き、招待するという雰囲気ではなくなった。残留韓国人と韓国の留守家族が日本で対面するのは、それから1年近く経ってからです。実に40余年ぶりの再会でした」
これをきっかけに再会運動、自由往来運動が本格化した。韓ソの国交樹立(90年9月)はまだ、予想さえできなかった時代のことだ。
草川さんは国会議員になる前、労働運動に忙しく、民団や総連との付き合いもなければ、在日問題に接したこともなかった。
「選挙を応援してくれた在日の方から、税金は同じく払っているが、融資や就職も、国民年金加入や公営住宅入居も、国体参加にも差別があると聞かされて、永住外国人にも生きにくい実態があることを初めて知った。それからですね。多くの在日と出会い、学び合う中で、『真の日韓友好は在日韓国人に対する差別撤廃から』が私の信念になりました」
草川さんの初当選は76年。金大中拉致事件(73年)、文世光事件(74年)と続いて韓日関係が険悪な時期だ。一方では、日韓議員連盟が発足(75年)し、第1回日韓親善協会全国会議が開催(76年)されるなど、関係改善への動きが活発に展開されてもいた。
民団は77年に『差別白書』第1集を発行、行政差別撤廃・法的地位確立運動を本格化させていく。青年会中央本部の結成(77年)に続き、各地に誕生した青商(在日韓国青年商工会)が81年の青商連合会創立へと動いていた。
「私がもっとも大切にしたいと思ったのは青商や青年会のメンバーです。2・3世の青年パワーが全開でした。日韓関係を改善し安定させるのは若い世代の、懸け橋の役割が何よりも大きいと考えたからです」
難題遂行へ常在援軍
草川さんの議員活動はかなりの部分で、民団が展開した行政差別撤廃・法的地位向上運動と重なる。在日同胞の国体参加を実現させたのをはじめ、民団と自治体・政党・省庁をつないで在日外国人の国民年金加入、外国人登録法の指紋押捺・常時携帯制度廃止、地方公務員採用における国籍条項の撤廃など、困難な課題を遂行する強力な常在援軍だった。「こういう事まで?」と思われる働きも少なくない。
個人情報の保護を盾に拒む厚生省(当時)を説得し、東京・目黒の祐天寺に安置されていた同胞の遺骨に祖国奉還の道を開いたのもそうだ。変わり種は、飲食店の無線オーダーシステムの件だろう。同胞の経営店では電波法の規制によって使えなかったそれを、「これだけ普及しているのに外国人排除はないだろう。これでスパイができるわけもない」と訴え導入を可能にした。ソウル・オリンピックを前に、民団は100億円を超える支援金を集めたが、その免税措置獲得の先頭に立ったことも忘れがたい。
盲導犬と入場行進も
「民団の人たちと懸命に仕事をするようになると、竹入義勝委員長から『韓国は軍事政権だ。間違えるなよ。公明党は北と付き合っているんだから』と叱責されたこともあった。『はい、分かった。分かりました』と言いながら、聞き流していましたけど、しばらくして転機が訪れます」
「公明党は87年、党として初めての訪韓団を派遣し、韓国との付き合いを深めて行きます。初訪韓の際、私個人としても大変なサプライズがありました。実は私、翌年のソウル五輪後のパラリンピックで盲導犬25頭といっしょに入場行進に参加するんです」
「全斗煥大統領らと懇談した席で、盲導犬の育成にかかわっている私の話に大統領が大変興味を示しました。盲導犬を提供することになり、韓国側の窓口になったのが浦項製鉄の朴泰俊会長です。彼から早速依頼があって、視力を失った社員を中部盲導犬協会が受け入れた。犬と一体の生活をする訓練の間、愛知婦人会がその社員にたびたび韓国食を差し入れ、激励していたのが昨日のことのようです」
当時の韓国は、盲導犬にまったく馴染みがなかった。そんな韓国で、開会式は一大デモンストレーションの場となり、盲導犬を普及させる起爆剤になったのだ。懐かしさを噛みしめるような目をしていた草川さんの表情が変わった。
「以来、しょっちゅう両国を往来して、朴泰俊さんら政財界の要人と兄弟のような付き合いが続きました。日韓・韓日議員連盟の存在も大きかった。昼は激論を交わしても、夜酒を飲めば和気あいあいになって、関係は安定していた。それが、日本では政界再編や政権交代があり、韓国では政治家の世代交代が余りに早くなって、人脈がほとんど切れてしまった」
草川さんは参鶏湯が好物で、飲むのはチャミスル(眞露)、一曲ひねるとすれば『ナグネソルム(淋しき旅人)』だ。民団や婦人会幹部の名前がぽんぽん飛び出すほど在日とのつながりも深い。そんな草川さんは今、「日韓関係がよく分からない」ともらす。そして、「パイプを太く」と呼びかける。
「サハリン残留韓国人の招待を決めたとき、安倍晋太郎外相から電話がかかってきた。『草川君、非常にいいことをやってくれた。これしか解決策がないんだ』と。私が大邱市の留守家族会に報告しようと金浦空港に着いたら、李範錫外務部長官(83年10月、北韓によるアウンサン廟テロで爆死)が待っていた。『ぜひ、サハリンの話を聞かせてくれ』と。全く意外でした。安倍外相は李長官とも懇意で、情報がスムーズに交換されるほど政治家同士の信頼関係があった。こうしたことが今こそ必要なんです」
地方参政権問題が暗礁に乗り上げたままなのに、一方でヘイトスピーチ(憎悪表現)が台頭する日本の現実に、草川さんの心境は複雑だろう。
法案通すには旬が…
「法案を通すには旬がある。機が熟す、機運が高まるということです。地方参政権とも関連する人権擁護法案もぶら下がったままだ。公明党はこれを一生懸命やってあと一歩のところまで来た。だが、どの政府部署が管轄するかで主張が噛み合わず、結局チャンスを逸した。次の旬はなかなか巡ってきません」
「地方参政権もかなりいいところまでいった。最高裁の判決もあった。冬柴鐵三さん(故人)と一緒に法案までつくった。国会審議も真摯でしたよ。自民党の野中広務さんも頑張ってくれた。その頃が旬だったな。だが、日韓・韓日議連で交流しているときは、日本に帰ったらすぐにもやるようなことを言いながら、自民党は全然動かなかった。冬柴さんはそんな自民党に抗議する形で議連の副会長を辞めます」
「参政権問題は諦めるべきではありません。肝腎なのは自民党の反対派をどう説得するかです。それをするのも連立を組んでいる公明党の仕事ですが、民団も自民党の有力者やその側近に、中央や地方でどんどん接触すべきです。自民党には『民主党政権下で民団をとられた』という意識がある。それに、日韓関係の改善に民団の果たす役割が大きいことも知っている」
「私が委員長をしている参院法務委員会でヘイトスピーチ問題が出た。『えらいことになったな』と。だが、大声を出して脅す程度では罪に問えません。法規制の是非も焦点になったが、行き過ぎた言論統制にもつながりかねない。日本全体としてヘイトスピーチを容認しない姿勢をどう示し、社会に広げていくか、問い続けねばなりません」
民団の中でも最も付き合いの長い呂健二中央副団長は、「草川さんの原動力は義憤だったと思う。韓日間の懸案解決に果たした功績、与野党を超えた信頼の厚さから見ても引退は残念ですが、影響力はまだまだ健在です。これからもいっしょにいい仕事をしたいですね」とのコメントを寄せた。
(2013.7.17 民団新聞)