掲載日 : [2006-11-15] 照会数 : 9452
<読書の秋>「ドイツ」を読んで祖国統一を考える
核実験を強行した北韓に対し、国連を中心とする国際社会の圧力が強まった。韓半島の平和定着と統一に向けた韓国の政策が、改めて問われてもいる。しかし、韓国の対北姿勢は、近・現代史の認識に対する葛藤とも絡んで、2元対立を際立たせかねない状況にある。「5・17事態」によって、在日同胞もこの対立と無縁ではないことを知った。そこで今秋は、分断国家として多くの共通項を持ったドイツの統一から、教訓を導き出す読書に徹するのも悪くない。その参考になればと、別掲の4冊をピックアップした。(編集部)
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包容政策の目的と評価
ベルリンの壁開放が89年11月、ドイツ統一は90年10月だった。「東独のような経済的発展を遂げ繁栄していた国が、一年後には欧州の地図から消え去ろうとは、ソ連指導部の誰一人として予想できなかった」。これは長年にわたって西独に駐在したソ連大使の述懐である(『ドイツ統一の舞台裏で』)。
ドイツ型統一に衝撃受けた韓国
米・英・仏の首脳とて例外ではなく、西独首脳にしても、瞬く間に崩壊していく東独を吸収するほかなかったのだ。ドイツはその後、経済的な困窮と「1民族2社会」と呼ばれる葛藤にさいなまれる。これは、韓国に大きな衝撃をもたらした。
統一時点での西独の経済力は、韓国の6倍。また、東独に対して国土は2倍、人口は4倍以上。韓国は人口で北韓の2倍強に過ぎず、国土は2割ほど狭い。東独の経済力は東側諸国でトップであったが、北韓は世界の最貧国だ。ドイツでは豊かな西の4人がそう貧しくない東の1人を養えば済むのに比べ、韓半島ではさほど豊かではない南の2人が赤貧の北の1人を養わねばならない。
しかも東独には、徹底した個人崇拝のもとで独裁が世襲されるような、異様な体制はなかった。さらに、東西ドイツは南北韓とは違って、テレビ・ラジオの相互視聴が可能であったし、ブラント時代に始まった東方政策によって、経済協力や人的往来の積み重ねがあった。何よりも同族相食む戦争を体験していない。
悪化する国際環境 東独と北韓、本質異なる
ドイツ型統一になれば、韓国は経済面での決定的な打撃と大規模な政治混乱を免れようがない。金大中政府が打ち出し、盧武鉉政府が継承した包容(太陽)政策は、ドイツのような吸収統一をしない、避けたい、という大前提から出発した。
包容政策はしたがって、軍事挑発には断固対処する半面で、可能な分野から経済・民間交流を推進し、警告と同時に希望を与えることを目的とした。99年6月、包容政策を試すかのように重大事態が発生している。
西海岸には38度線をはさんで、休戦協定で明確な線引きができなかった海域があり、事実上の緩衝区域になっている。北韓がここに軍艦を南下させると韓国海軍も北上し、8日間にらみ合ったあげく北が発砲、韓国が応戦するところとなり北韓は1隻撃沈、2隻大破、死者30人、負傷者70人と推定される被害を出して退却した。金大中政府はしかし、包容政策に変化がないことを強調、肥料援助を予定通り実施した。
当初、包容政策の甘い側面に不安を抱いていた国民も、断固とした対処を目の当たりにし、信頼を寄せるようになったという。
しかし北韓はむしろ、核開発に拍車をかけ、03年1月には核拡散防止条約からの即時脱退を表明、05年2月には核保有を宣言した。ばかりか、日本人拉致事件や麻薬・偽造ドルの輸出など、国家犯罪を相次いで露見させた。そしてミサイル連射に続くこの10月の核実験強行である。
核実験の翌10日に韓国社会世論研究所が行った調査で、包容政策の「全面見直しまたは一部修正」を求める回答が90・9%に達した。国際社会からも、包容政策は成果を急ぐあまり、「断固対処」の側面を後退させて譲歩を重ね、結果的に東アジアを脅かす危険因子を増長させ、大量破壊兵器の拡散を助長した、との批判が巻き起こった。
盧大統領は今月6日の施政方針演説で、国連安保理の制裁決議を尊重しつつも、包容政策の基本原則を維持する旨言明した。今後、韓国の対北姿勢はどうあるべきなのか。
「太陽」であれ「包容」であれ、その名称はレトリックであって、金大中・盧武鉉政府の対北政策の原点は、それまでの歴代韓国政府の経験と、西側陣営の閉鎖社会国家に対する勝利政策を収れんしたものだ。
東側改革促した勝利政策の本質
米国は共産圏諸国に対して二つの異なる政策をとってきた。一つは外交・経済・文化・スポーツなどあらゆる分野で交流を推進し、東側に西側の優越性に対する認識・憧憬を浸透させ、内部からの改革を促す政策である。その結果、中国は改革・開放に進み、「悪の帝国」ソ連とその勢力圏は崩壊した。
ミサイルどころか一発の銃弾も使わずに、人類史上でも類例のない勝利を収めた政策に対し、もう一方の力の政策はどうだったか。ベトナム戦争の敗北をあげるまでもない。米国は膝元のキューバですら屈服させられず、アフガン、イラクでも泥沼に引きずり込まれたままだ。
西独・ブラント首相の腹心で、東方政策の立案者とされるパール首相府長官は、「接近を通じての変化」を唱え、長期的な観点から東側を流動化させるシナリオを持っていたという。ブラント首相に不信任を突きつけ、秘書スパイ事件で辞任に追い込むなど、この東方政策に手厳しい攻撃を加えた保守政党(CDU=キリスト教民主同盟)も、実質上は東方政策を継承したのであり、CDUの政治家たちも今では、「東方政策によって絶えざる交流が可能になったからこそ現在がある」と認めた(『戦後ドイツ=その知的歴史』)。
ドイツ統一時の国際環境と韓半島を取り巻く現情勢は、大きく異なっている。さらなる繁栄を求めて経済共同体から国家連合へと進む西側に対して、ソ連を中心とする東側は崩壊の危機に瀕していた。デタント・融和の方向で全ヨーロッパの新秩序を形成しようとする流れがあった。
しかし、韓半島を軸とする東北アジアは、中ロ・米日の利害が錯綜し、なかでも台頭著しい中国と日本の激しい覇権争いが潜行していると見なければならない。しかも、「ソ連なくして東独なし」と言われるほど東独はソ連の強い影響下にあったが、中ロには北韓にそこまでの影響力はない。加えて、北韓は東独とは違って大量破壊兵器を開発・保持している。
南北関係の現在は、東西ドイツ関係よりはるかに困難な要素を抱えているかのように見える。だからと言って、韓国の対北政策は両極の一方にシフトしてはなるまい。包容政策の運用について厳しく再検証するとともに、東側に対する西側の勝利政策を効果的に推進する方途の考究がまず急がれる。
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西独の対東独姿勢の変遷について
①『戦後ドイツ‐その知的歴史』(三島憲一著・岩波新書/定価=本体780円+税)②『ドイツを変えた68年運動』(井関正久著・白水社/定価=本体1900円+税)。
寸評=①ナチズムの清算、驚異的な経済成長と権威主義批判、知識人批判、統一国家像の模索など、分断から統一へ至る過程で、分断国家特有の排除の論理が支配的だった西独。知識人の言動を中心に、知的葛藤を克明に追っている②「30歳以上の者は信用するな」というスローガンを掲げて、ナチと関わりのある親世代との対決姿勢を鮮明にし、権威主義批判を繰り広げた60年代後半の学生運動が焦点だ。ドイツ社会に地殻変動をもたらしたこの運動の担い手は「68世代」と呼ばれ、韓国の「386世代」との共通項が少なくない。
ドイツ統一をめぐる国際協力について
③『歴史としてのドイツ統一=指導者たちはどう動いたか』(高橋進著・岩波書店/定価=本体3600円+税)④『ドイツ統一の舞台裏で=六角形の円卓会議』(リヒャルト・キースラー/フランク・エルベ著/田中謙次訳・中央公論事業出版/定価=1800円+税)。
寸評=③ドイツ統一はなぜ、異常なまでの早さで進んだのか。両独・米ソなど各国指導者はどう動いたのか。ドイツ外交の研究者である筆者は、指導者たちの回顧録や外交資料を精査し、統一に至る国際政治の過程を再構成した。軍事・経済をめぐる各国の思惑や首脳たちの苦悩が興味深い④東西欧州の融和を通じてこそ、ドイツ分裂にも終止符が打てる、という長期的な展望に立った粘り強い努力の成果として描かれている。筆者のエルベ氏はゲンシャー外相の懐刀として統一交渉の第一線にいた。キースラー氏はシュピーゲル誌の外交記者として現場を見守っていた。舞台を内と外から検証している。
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西独から学ぶ教訓3つ 徹底した相互主義貫く
韓国がドイツ統一から導き出すべき教訓は、少なくとも三つある。第一に、68年の学生活動家でさえ東独体制に対して批判を行い、反体制派とも交流して民衆として連帯を築いたこと。第二に、西独は何事にも一方的な譲歩はせず、相互主義を貫いたこと。第三に、両独+米英仏ソ(2+4)体制を構築し、自主性の貫徹と国際的な協調の均衡を見事にとったこと。
ブラント首相の東方政策が推進されるまで、両独関係はフィクションの上にあった。西独にとって東独は国際法上存在しておらず、あくまで旧ドイツのソビエト占領地域であった。東独から見る西独はナチ後継者の復讐主義者の集団に過ぎなかった(『戦後ドイツ=その知的歴史』)。
この虚構を現実に置き換え、東方政策を可能にする下地をつくったのが68年運動だった。この運動は60年代後半に起こり、67年から68年にかけて激化した、既存の政治体制に対する抗議行動を指す。担い手は30年代後半から40年代後半に生まれた最初の戦後世代で、反権威主義や社会主義の思想を抱いた左派学生たちであった。リーダーは東独出身で、東独時代にマルクス主義に関する豊富な知識を習得した。
68年運動時でも東独体制を批判
西独の若者たちは東独によって、「国家ぐるみの煽動政策の標的にされていた」(『ドイツを変えた68年運動』)。東独は秘密警察シュタージの要員を西側に多数送り込み、ブラント首相の秘書にまで喰い込んだのは有名な話だ。68年9月には、資金提供を含む強力なバックアップによって、ソ連型モデルを肯定するドイツ共産党を再建した。
しかし、西独の学生運動家たちは東独の体制側の学生と頻繁に接触しながらも、東独の民主主義の欠如を指摘し、一方では東独の反体制勢力とも接触していた。西独に対する東独の政治工作は、大きな効果を発揮したとは言えない。東独体制は西独の左派学生からも信認を得られず、何より自国の学生・市民の怨嗟の的であったからだ。
東独の西独に対するプロパガンダは、もともと成功する条件に欠けていた。こうした事情については、『ドイツを変えた68年運動』が秀逸である。韓国でも「386スパイ事件」に対する捜査が本格化するという。いわゆる親北運動団体を検証する意味からも、ドイツの先例は興味深い。
西独の東独に対する相互主義は徹底していた。借款にしても自らの経済的利益はもちろん、政治的な反対給付を確保することを優先した。東独の政治犯3万4千人を西独に釈放し、離散家族25万人を西独に移住させる代価として、34億マルクの物資支援を行ったのはその代表例だ。
東独はベルリンの壁が解放される直前、対外債務の肩代わりを要請したことがある。これに対し西独は、反体制派グループの容認、自由な選挙、ドイツ社会主義統一党(SED)の指導的役割の放棄などをあげ、これを呑むならば検討すると応じた。相互主義の実相については、『歴史としてのドイツ統一』が詳しい。一方的な持ち出しを批判される包容政策と対比されるべきだろう。
国際的な協調と自主性の貫徹と
ベルリンの壁崩壊後も、東西ドイツ間はもちろん、西独とソ連、西独と英仏の折衝は複雑を極めた。米国だけが西独の後ろ盾であったと言っていい。
強力な国家となる統一ドイツの軍事的な立場は? 東独を失うソ連の保守派の反発は? ペレストロイカ・ソ連改革の行方は? 関係国のせめぎ合いは、それぞれの国内事情も絡まって熾烈であった。
統一に当たって両独が脇役になることも、単独行動をとることも許されない。「ヨーロッパの統一はドイツを中心とするだけでは実現しないことであり、統一問題をヨーロッパの次元で扱うことであった。統一問題の『ヨーロッパ化』である」(『歴史としてのドイツ統一』)。
韓半島の統一は、政治的にはもちろん、経済的にはドイツに比べて格段のコストを要する。現在の6者協議と同じ枠内で、ドイツ型の2+4の方式と同様の国際協調は欠かせない。
統一をめぐる現場外交のルポとも言うべき『ドイツ統一の舞台裏で』には、各国首脳や担当外交官のやり取りや人間性が描かれている。各国関係者は「お互いをファースト・ネームで呼び合う仲になっており、その関係は、東ドイツ外務省の人間が不愉快に思い、不平すら言うほどであった」とされ、「実際にはこの相互信頼は、その後のマラソン交渉を完走するための重要な前提であった」との述懐は重い。
困難な国際問題の解決には、国と国の利害がぶつかるとは言え、首脳や実務者たちの間には友情とも呼べるほどの相互信頼が欠かせない。
(2006.11.15 民団新聞)