掲載日 : [2022-02-02] 照会数 : 2299
忘れられた柳並木<北送同胞の無念思いやる…'小島晴則さん
[ 「ボトナム通り」由来碑の前で小島晴則さん ]
[ 「東港線」に立つ標識 ]
「帰国協力」を後悔
【新潟】JR新潟駅前の東港十字路を右へ。新潟港の中央ふ頭へと続く「東港線」と呼ばれる国道沿い1・5㌔余りにわたって「ボトナム(柳)通り」が続いている。県内の在日同胞が中心となって北送第1船への乗船を前にした1959年11月、「日本に住んでいた証」として305本の苗木を植樹した。いまやこのうちの178本が枯れたままだ。超党派の新潟県帰国協力会の元事務局長、小島晴則さん(91、新潟市)は柳が風にそよぐたび、涙を流しているかのようで、切ない思いにかられると話している。
「ボトナム通り」は市民には忘れられた存在のようだ。新潟駅前から乗車したタクシーの運転手に聞いても知らなかった。「東港線」と言いなおしてようやく通じた。
新潟港中央ふ頭前で車を降りると、「ボトナム(柳)通りの由来」を説明する記念のプレートがみつかった。そばには朽ちはてた木の標識。案内してくれた小島晴則さんの説明で「新潟県朝鮮人帰国記念ボトナム(柳)通り」と書かれてあることがようやく理解できた。
植樹にあたっては総連関係者と県帰国者協力会傘下の労働組合など100人ほどがスコップを手にした。小島さんは59年11月6、7日の2日間とも参加した。
名称は「帰国のボトナム通り」とすることに決まり、当時の北村一男県知事は「末永く並木を守り育てていきたい」と述べた。当時の日本社会は拉致問題に揺れるいまと違い、北送に好意的だったことがわかる。
小島さんは北送船が出港するたび新潟港中央ふ頭に立ち、「民族の大移動」とさえ報じられた風景を見てきた。「おめでとう」「お元気でね」「また会いましょう」。
在日朝鮮人の側も「また戻るからね。ボトナム通りでまた会おう」と笑顔を見せた。3年もたてば朝日間の往来が実現するとみな、固く信じていたのだ。
小島さんは頭の片隅では一抹の心配もあったという。一方、総連幹部の言葉に嘘はないと信じるもう一人の自分がいた。 しかし、現実はそうならなかった。北送第1船が出港してから3、4年も経つと、日本人妻から生活必需品を無心する手紙が届くようになった。総連幹部に「事実か」とぶつけると「デマ」だと否定された。
だが、64年に初めて訪朝してから半信半疑だったものがゆるぎない確信に変わった。それは人々の生活の貧しさを自らの目で確認したこと。当局が知人の帰国者に一人も会わせてくれないことにも違和感を覚えた。
小島さんはいまも1日1回は外出する。ボトナム通りで枯れた柳の木を見るたび、「実態も知らず地上の楽園なんて、よくもまことしやかにしゃべったものだ」と複雑な思いにかられるという。
「柳は帰国者が託した友好の懸け橋。永遠の使命を帯びた親善のシンボルなのだ。望郷の念を抱きつつ、無念のうちに異国の土になった在日朝鮮人の善意をいまにつなげたい」と話している。
(2022.02.02 民団新聞)