掲載日 : [2021-02-10] 照会数 : 5539
「誠信の交わり」 写真家・藤本巧さんオンラインでギャラリートーク
[ 市の日でにぎわう慶尚北道栄州の村(1970) ] [ 浅川巧の墓(1970) ]
「浅川巧からはじまった」
工芸品の美 発掘
山林緑化に尽力 韓国への関心生む
韓日の交流の歴史を振り返るオンライン展示「藤本巧 写真活動50周年記念巡回特別展 誠信の交わり」が昨年11月6日から12月19日まで、大阪韓国文化院(北区)で開催され、会期中、藤本さんによるオンライン・ギャラリートーク(3部構成)の収録が行われた。第1回は「浅川巧からはじまった『私の韓国50年誌』」をテーマに、1970年に初渡韓した際に訪れた地方の様子や浅川巧などの思いについて語った。
藤本さんは1970年夏、父親と一緒に初めて韓国を訪れた。その目的は日本の植民地下の韓国で、荒廃した山林の緑化に尽くし、韓国の工芸品などに美を見出した浅川巧の墓参りと、日本民芸運動を推進した柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司が韓国を歩いた道を辿ることだったという。
韓国と関わるきっかけとなったのは、民芸の啓蒙を目的に柳宗悦が監修を務めた雑誌『工藝』に載っていた牛市(1936年)の写真だった。藤本さんは、この写真を見た瞬間「このような写真を撮ってみたいと思った」と話す。
藤本さんの父親は若い頃、柳宗悦著『工藝の道』を読み、民芸運動に賛同。本棚には民芸に関する書籍がたくさん並んでいたという。藤本さんの名前「巧」は、柳宗悦著『私の念願』に書かれていた浅川巧の生き方に感銘した父親が名付けた。
この旅で藤本さんは浅川巧が眠る忘憂里共同墓地に向かい、その後、民芸に興味のある韓国の青年の案内で地方を旅した。慶尚北道栄州の村で市の日に出会い、麻の生産で有名な安東の村に行き、高霊の村で陶器を作る職人たちに会った。当時の感想を「雑誌『工藝』で見た34年前の風景が今、ここに存在していることに私は驚いた」と述べている。
藤本さんは2011年、1970年から40年以上にわたって韓国の原風景を撮り続けてきた作品4万点余を韓国国立民俗博物館に寄贈した。同館は柳宗悦、浅川巧たちが景福宮に開設した朝鮮民族美術館と同じ敷地内にある。
浅川巧については「わずかな収入の大半は韓国の貧しい人のために使われた。幾年もこのことを続けていたが、日本ではそのことを知る人は少なかった」などと説明した。 同院ホームページでは、」オンライン・ギャラリートークと併せて、展示の様子もオンライン(https://youtu.be/XEpZfYwgiE8)で視聴できる。
(2021.02.10 民団新聞)