掲載日 : [2020-04-25] 照会数 : 9154
【寄稿】韓半島最初の単独政府は「北朝鮮臨時人民委員会」
[ 1946年2月8日に平壌で開催された北朝鮮臨時人民委員会成立慶祝大会。太極旗と共にソ連以外の連合国の国旗も掲揚された ] [ 46年2月の北朝鮮臨時人民委員会宣布式。「金日成将軍の20個政綱を基礎に朝鮮臨時政府を樹立しよう」との大型宣伝物も ]
国土分断の出発点に…「済州4・3事件」は軍事冒険主義
◆ソ連の対日宣戦布告
1945年8月8日、日本降伏(8月15日)に先立って対日宣戦布告を行ったソ連は、8月24日には平壌に進駐し、10月3日、平壌に「ソビエト民政庁(軍政庁)」を設置した。
ソビエト民政庁(軍政庁)は、呂運亨系の「建国準備委員会」および「人民委員会」の北部組織を事実上解体した。そして、新たに「北朝鮮5道行政局」を11月28日に発足させ、民族主義者の曺晩植(チョ・マンシク=1883~1950年)を行政局委員長に立てた。
ソ連の当面の目標は、国内的に権威の高い曺晩植を立てる「統一戦線戦」戦術によって権力基盤の拡大を図ることにあった。その上で、ソ連から呼び寄せた金日成に実権を掌握させ、最終的に共産党政権を打ち立てることを目標としていた。
民族主義左派の呂運享系の組織を事実上排除したのも、この脈絡からである。
ソ連は同時に、活動歴の長い共産主義者たちを、国内に基盤のない若い金日成(当時33歳)よりも下位に配置した。そして、抵抗する者たちを排除しながら、強権的に垂直的な序列を立てていった。ソ連に対する忠誠だけが唯一の基準であった。
強大な武力を背景に展開された東欧の衛星共産国家群の形成と同じ、スターリン主義的な支配地域の拡張手法である。現地の実情や民意は無視された。
曺晩植は、1945年11月3日に「朝鮮民主党」を結成して委員長となっていたが、12月27日、モスクワでの米英ソ3カ国外相会議が「朝鮮信託統治案」を発表すると、即時独立を主張してこれに反対した。また、「北朝鮮5道行政局」による自主的な北部行政の実現を目指した。
翌1946年1月5日、曺晩植はソ連軍と共産主義者によって拘束される。
曺晩植は後日、「6・25」動乱勃発後の1950年10月18日、国連軍による平壌進出の直前に処刑された。1919年、定州・五山学校長の職をなげうって「3・1独立運動」の先頭に立ち、平壌監獄に投獄されて以来31年、闘い続けた67年の生涯を閉じる。
曺晩植に関しては、南部での権力闘争に敗れて左派の統一戦線戦術に巻き込まれた民族主義者の金九が、1948年4月19日、平壌での「南北連席会議」に参加した際に曺晩植の釈放を金日成に求めている。だが、金九は曺晩植と面会すらできなかった。政治的にも左派の一方的な宣伝に利用されただけの結果に終わり、金九は失意のうちにソウルに戻る。
◆南朝鮮労働党の武装
この南北連席会議に先立つ1948年4月3日、済州島ではすでに「南朝鮮労働党」によって武装闘争が開始されており、智異山におけるゲリラ闘争から1950年の武力南侵に至る、北側の武力闘争路線はほぼ既定の流れであった。南北連席会議は、左派の主導権を確立するための方便に過ぎなかったのである。
武力闘争の結果、韓半島から親米勢力が駆逐されれば、東欧からアジアにまたがるスターリンの覇権は不動のものとなるはずであった。
1946年1月に「北朝鮮5道行政局」の責任者・曺晩植を排除したソビエト民政庁(ソ連軍政庁)は、同年2月8日、代替組織として「北朝鮮臨時人民委員会」を立ち上げた。名目上、行政業務を移譲するが、実権は引き続きソ連軍当局にあった。
ここで初めて、金日成が「北朝鮮臨時人民委員会」委員長として公式に北部権力のトップとして現れることになる。以後、「北朝鮮臨時人民委員会」は忠実にソ連の意向に沿って政府権力を行使し、暴力的に「社会主義改革」を既成事実化していく。
この「北朝鮮臨時人民委員会」こそ、名称は「委員会」だが、この地における最初の「単独政府」である。この事実を無視してこの時代の歴史を語ることはできない。
ちなみに、同1946年8月28日、「北朝鮮共産党」と「朝鮮新民党」が合併して「北朝鮮労働党」が結成されるが、ここでは前年12月に朝鮮新民党を結成した金枓奉(キム・ドゥボン=1889~1958年?)が委員長に就任し、金日成は副委員長となっている。長い活動歴を持つ延安派の金枓奉の存在を無視できなかったためである。
◆土地改革に着手
「北朝鮮臨時人民委員会」は、1946年2月8日の創立に続いて、3月5日には早くも「土地改革」に着手し、主要産業の国有化など「社会主義体制」への移行が始められた。これは単なる行政的活動とはいえず、明確に「政府」としての権力行為であった。
したがって、この「北朝鮮臨時人民委員会」こそは、選挙という合法的な手続きを経ていないとはいえ、韓半島における最初の「単独政府」であったというべきである。
国内外で南北を統合する統一的独立政府が模索されている過程で、北ではすでに事実上の「政府」が独り歩きしていたのである。
この「北朝鮮臨時人民委員会」は、翌1947年2月20日に「北朝鮮人民委員会」と改称され、さらに1948年9月9日、「朝鮮民主主義人民共和国」政府となる。
なお、北韓における「土地改革」は、当初は地主の土地を無償で没収して小作農に分配したため、農民たちの大歓迎を受けた。だが、政権が定着するとすぐに「個人所有」は廃止され、強制的に「人民所有(共同所有)」に転換されてしまう。いわゆる「集団化」である。詐欺的手法だが、抵抗は暴力的に排除された。
このころから、北の現実に失望した「難民」が大量に南に逃れてくる事態が発生する。北部における事実上の単独政府としての「北朝鮮臨時人民委員会」の動向は、すでに米ソ冷戦が陰を落とし始めていた内外情勢に決定的な影響を与えた。
1946年3月から5月にかけて開かれた第一次米ソ共同委員会は、朝鮮における臨時政府樹立のための協議対象(政党・団体)の選定を巡って難航し、決裂した。米側は、ソ連と「北朝鮮臨時人民委員会」による北部住民への強権的な弾圧行為を非難していた。
事態を打開しようとして5月末に進められた統一政府推進のための「左右合作運動」も、10月には破綻する。現実はすでに彼らを追い越していた。
◆李承晩の対抗
一方で李承晩は、北部で共産政権が既成事実化している中での左右合作運動の虚構性をきびしく指摘し、南側も北部の一方的な政権樹立に対抗する必要を訴えた。
こうして、翌1947年5月に再開された第2次米ソ共同委員会も決裂に終わり、米国はやむなく朝鮮の独立問題を国際連合総会に上程するに至る。
1947年11月14日、国連第2回総会は国連監視下の南北朝鮮総選挙の実施を可決し、統一選挙実施への「国連朝鮮臨時委員会」を立ち上げた。
1948年1月23日、ソ連は統一総選挙準備のための国連朝鮮臨時委員会の北部立ち入りを拒否した。一方、南部では、国連監視下の統一総選挙を「単独選挙」だとする左派勢力による一方的な抗議活動とストライキが拡散する。これは、南北の一体化を模索するというよりは、北部政権への組織的な援護射撃を実質的な目的とするものであった。
同1948年3月12日、国連は監視可能な地域での総選挙実施を決議し、同年5月10日、北緯38度線以南での総選挙が実施された。こうして、1948年8月15日、「大韓民国」は樹立された。北部でも9月9日、「朝鮮民主主義人民共和国」樹立を宣言した。
以上が、韓半島分断国家成立の過程である。
◆延安派の大規模粛清
分断国家成立の発端となった「北朝鮮臨時人民委員会」の形成過程において、民族主義者の独立運動家・曺晩植の運命についてはすでに見た。
「北朝鮮臨時人民委員会」に関与したもう一人、臨時人民委員会の副委員長に就任した左派独立運動家の金枓奉は、その11年後の1957年9月20日、北の最高人民会議常任委員長を解任されている。そして、翌1958年3月の朝鮮労働党代表者会議で追放処分を受け、「粛清」された。
この時、1919年の上海亡命以来の民族闘争を終えた金枓奉は69歳であった。朴憲永ら南労党系指導者たちの粛清に続く、延安派の大規模粛清である。
この延安派粛清によって、北政権は幹部テクノクラートの大半を失っているが、北における「粛清」がほぼ肉体的な抹殺を意味することは周知の事実である。朝鮮労働党政権における「粛清」の暴力性は、「首領体制」理念そのものの排他性と暴力的本質に根差している。
延安派の粛清ののち、ソ連派の粛清によって北における金日成独裁体制は完結した。また、個人を神格化する「首領」体制が、我が国のすべての歴史的事実を歪曲していくことになる。
この歪曲された歴史においては、大韓民国は反民族的な「単独選挙」の結果物であり、これに抵抗した「済州4・3事件」は正義の闘争とされている。
だが、韓半島の地に最初の「単独政府」を作ったのは米国ではなくソ連であり、「済州4・3事件」は、社会主義革命を目指す南労党が住民を巻きこんだ軍事冒険主義以外の何物でもない。
「単独政府」問題で非難されるべきはソ連の軍事拡張路線であり、それに盲目的に追従して権力を獲得していった者たちである。
また、「4・3事件」の悲惨に対して、その責任を追及されるべきは、独善的な理念を盲信し、一般住民をゲリラ闘争に巻き込むことをいとわなかった極左冒険主義者たちである。
今日なお特定の意図をもって「4・3事件」を美化してやまない人々がいる。
だが、海に囲まれた狭い島の中で、援護もなしに「武装闘争」を引き起こすことの結果は目に見えていたはずなのだ。それは、単なる戦術的な過ちとして見過ごすことはできない、非人道的「暴挙」であった。
◆北の武力路線
「人民遊撃隊」と称して軍の武器庫から集団で大量の銃器を奪い、警官を射殺しては住民の中に逃げ込む卑劣な行動は「ゲリラ」とすらいえない。まさに「テロ」活動というべきだ。
コミュニストのレーニンさえも、勝利に対する確実な見込みなしに武装闘争を起こすことをもって「反人民的・反革命行動」と規定している。この規定は、ロシアにおいてはナロードニキ左派のテロ活動、ドイツにおいてはローザ・ルクセンブルグの武装蜂起に適用されている。
韓国においては「4・3事件」こそがこの反動規定に正確に当てはまる。
何より想起されるべきは、「4・3」における冒険主義的武力闘争の延長上に、200万人以上の生命を奪った「6・25」武力南侵があり、また、今日まで続く南北対立と国土分断の固定化が存在しているという現実だ。
北における武力路線は現在まで持続しているが、その思想的根源は「個人崇拝」にある。個人崇拝扇動に支えられた「首領」体制は、人民のためのものではなく、少数の特権集団の権益を永遠に保障するためのものである。その武力は人民を抑圧するための道具に過ぎない。
繰り返して、韓半島における最初の「単独政府」は1946年の「北朝鮮臨時人民委員会」であり、これが今日に至る国土分断の出発点であった。
金一男(韓国現代史研究家)
(2020.04.24 民団新聞)