掲載日 : [2020-02-27] 照会数 : 6560
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<37>(茨城・古河宿)
[ 古河城下本陣趾 ] [ 道路標識 ] [ 城下町を思わせる旧家 ] [ 赤門(正定寺) ]
「日光道中絵図」から往時をしのぶ
日光街道に沿って「栗橋宿」周辺を歩く。この地名の「橋」は、利根川に架かる「橋」に由来すると連想した。しかし資料には、侵入者(敵)から「江戸」を守るため、幕府は利根川のような大河には、橋を架けることを許可しなかった。さらに交通の要地ということで、川の両岸に関所を設けた。この地点が如何に街道として重要だったかを物語っている。
しかし例外もあった。将軍と朝鮮通信使が通るときだけは、「房川(ぼうせん)の渡り」という臨時の船橋が架設された。その様子を描写した絵図がある。川幅いっぱいに船を並べ、鉄と石土俵の鎖を川底に沈める。それから横板を船上に並べ、船同士を綱などで固定する。絵には5艘しか描かれていなかったが、実際には高瀬舟51艘が並べられたという。
朝鮮通信使は、さらに街道を北へと進む。現在では、お茶屋口、御馳走番所の形跡を残す目印がある。街道から西に折れた脇道には、福法寺があった。この寺の山門は旧古河城内(二の丸御殿)の乾門を移築したものである。私は再び街道に戻り古河城跡へと向った。その途中で「江戸町通り」も撮影した。時代を感じる柱の焦げ茶が漆喰の壁に冴える。その周辺には、徳川家康の従弟にあたり、古河城主であった土井利勝が眠るお墓が、正林寺にあった。10万石以上の格式の武家に許された赤門。黒門は江戸本郷にあった土井家下屋敷の表門を移築した。
街道は、尊勝寺で鍛冶屋通りと逆方向に直角に曲がる。そして「よこまち通り」でも又直角に折れる。その導線が「曲尺(かねじゃく)」の型に似ていることから地図には「曲の手通り」と書かれていた。敵の強行突入を防ぐための工夫なのか?
古河城の起源は、平安末期あるいは鎌倉初期と言われている。しかし、明治6年(1873年)政府の廃城令により、城の全てを失った。国立公文書館(デジタルアーカイブ)の「日光道中絵図」に、古河城が描かれているのに気づいた。
日光街道沿いに見られた建物は茅葺きで、ポッンと建つ倉のみが瓦屋根であった。当時は商家と農業を兼用していたと以前資料で読んだことがある。
古河宿。それから今も現存する寺の名称も見つけた。この絵巻の日光街道は、幅広く描かれている。その道で商人や馬に乗る侍、それから駕籠かきなどもいた。私にとって朝鮮通信使の行列も描かれていたら良かったのだが。
藤本巧(写真作家)
(2020.02.26 民団新聞)