掲載日 : [2020-03-11] 照会数 : 6972
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<38>栃木県(小山、宇都宮)
[ 西生浦倭城 ] [ 中曲輪跡周辺 祇園橋 ] [ 小山城址 ] [ 韓国の西生浦倭城 ]
韓国の「倭城」思わせる「小山城址」
朝鮮通信使は栗橋で昼食を取り、日本橋から数えて12番目の宿場・小山(おやま)で泊まっている。残念ながら「小山宿」の所在は曖昧で、現在の小山市役所辺りとしか分からず、遺構は残されていない。
私は「小山城趾(別名祇園城)」まで足を延ばしてみた。小山城のあった場所は城山公園となっていた。城跡内を歩くと空堀によって城を構成する曲輪(くるわ)、土塁、馬留めなどの痕跡に出会った。歩いているうちにいつのまにか夕陽が城の石垣を橙色に染めていた。以前だが韓国の「倭城」を訪れたときの光景が思い出された。
新羅の軍に攻め入れられ、百済は660年に滅亡する。扶余から撤退して、日本に住み着いた百済の人たち。彼らの影響を受けて、古代の山城は築かれた。ところが時が経ち戦国時代に培われた日本の築城は、朝鮮王朝の城より実戦的防護力が勝っていたのである。
そもそも、朝鮮通信使の始まりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵であった。徳川家康が途絶えた国交を回復させようと、朝鮮王朝を招いたのが始まりであった。
私は日本軍が朝鮮半島まで出兵して、陣取った「倭城」の痕跡を取材したことがある。私の資料では主に慶尚道に20カ所以上、全羅道に1カ所が現存する。私が訪れたのは蔚山に位置する西生浦倭城であった。文禄・慶長の役で加藤清正により、築かれた倭城である。天守閣はもちろん無かったが、本丸跡からの眺めは、敵を攻撃しやすいような桝形虎口(ますがたこぐち)が、幾重にもなされていた。
栃木では、日光街道から離れたところでも関心が深かったのか、大川島神社(小山市)、沼鉾神社(佐野市)、満願寺(栃木市)、そして福原八幡宮(大田原市)などに、通信使の行列を描いた大きな絵馬が残っている。しかし、非公開であったり、郷土博物館に預けられていて撮影などは難しかった。
次の宿泊地は宇都宮の粉河寺になるが、この寺は県庁前の県総文、旧栃木会館一帯を境内とする大きなお寺であったが、明治年間に火災で焼失し宝蔵寺に合併し廃寺になった。
宇都宮の博物館に、朝鮮通信使と縁のある場所を尋ねたが、宇都宮空襲(第二次世界戦争)の戦火で、宇都宮市とその周辺はほとんどが消滅した、という回答だった。
藤本巧(写真作家)
(2020.03.11 民団新聞)