掲載日 : [2019-04-03] 照会数 : 6781
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<21>滋賀(朝鮮人街道)④
[ 堀りの両側に石垣が積まれ、白い土蔵が川に映る ] [ 松の枝が板塀から延びた近江商人の本宅 ] [ 船着場を復元した八幡堀 ] [ 朝鮮通信使を模した瓦人形の旗手(八幡教育会館) ]
伝統的建造物保存地区に指定
『近江八幡の歴史・街道と町なみ』(近江八幡市、2004年)によると、1585年に豊臣秀次が、八幡山に城を築いた。その山麓に城下町八幡を作った。1700年頃に描かれた「江州蒲生郡八幡町惣図」は、当時の町の構図が示され、朝鮮人街道の道筋も色の濃度で表していた。
八幡堀・新町・永原町などと、歴史的な町並みが続くことで、この辺りは伝統的建造物保存地区に指定されている。
以前は水質が汚れ荒れていた八幡堀も美しくなり、かつて荷物の上げ下ろしをしていた船着場が復元されていた。お掘りの両側に石垣が積まれ、白い土蔵が川に映っている。絵になる被写体が連続する。肥料を扱った苗村屋、酒造業を営んでいた幸村家のような立派な町屋が目立つ。
新町通りには、江戸に店を構えた近江商人たちの本宅が多い。その証は客門を構え、「見越しの松」と称する松の枝が板塀から延びていることであった。
旧八幡町は碁盤の目のように区画され、その中を朝鮮人街道が通る。新町三丁目と交差するところに、江戸初期に活躍した「旧伴家住宅」がある。現在は八幡教育会館として一般に公開されていて、朝鮮通信使を模した瓦人形の旗手や、正使・副使を持てなした「五々三の膳」の複製が展示されている。通りを歩くと、古い町並みでしか見られない建築意匠である格子、煙出し、ばったり床几(しょうぎ)などに出会った。
近江八幡からの道標「朝鮮人街道」の下に小さく「京街道」と記されているのは、朝鮮通信使が通行するまでの将軍家が上洛する道だった「京街道」の名残と聞いた。
近江での朝鮮通信使の行動は、京都を出てから大津で昼食休憩、中山道を通り守山で一泊。野洲から朝鮮人街道を通り、正使・副使は本願寺八幡別院(金台寺)の書院で饗応接待と休憩を取っている。下官たちには寺の対面所・本堂それから商人屋敷などが提供された。
1748年に来日した曹蘭谷が書き残した『奉使日本時聞見録』には、八幡別院に関する一文が書かれていた。「昼食の館に入っていったが、すなわち八幡山の金台寺である。壮麗ではないが、またおのずと瀟洒であり配置されたすべての諸具が森山(守山)より優れていた」
藤本巧(写真作家)
(2019.04.03. 民団新聞)