「大衆音楽」とは、音楽的知識がなくても誰でも演奏して聴きながら楽しめる音楽を意味する。そのため大衆音楽は時代をまたぐ流行的な要素と遊戯的な娯楽性、そして商業性を持っている。大衆音楽の土台は、口伝えだけで行われていた方式が録音技術によって保存と所蔵の概念が生まれ、産業として成長してきた。
「流行歌」という用語で呼ばれていた韓国の大衆音楽は、100年以上の歴史を持つ。年代ごとに「時代の鏡」だった韓国の大衆歌謡は、政治、社会、経済の流れに合わせ、先導する役割を担って発展してきた。
民謡と愛唱歌の時代が過ぎ、日本による植民地時代に表面化してきた韓国の大衆歌謡は、国を失った国民の傷ついた心を慰めながら出発をした。一世紀を経た韓国大衆歌謡の歩みを振り返る。
◆日帝植民地時代
初収録は「この風塵歳月」 「死の讃美」も話題に
左から、尹心徳「死の賛美」、李蘭影「木浦の涙」、李愛利秀「荒城の跡」
媒体の収録を基準に見ると、当時、韓国人が創作に関与した流行唱歌でアルバムに収録された最初の歌は、1923年日本蓄音器商会(現・日本コロンビア)に収録された朴菜仙と李柳色が歌った「この風塵歳月」だ。
当時の唱歌集には「蕩子自嘆歌」「青年警戒歌」などの題名で楽譜が収録されており、解放後は「希望歌」と呼ばれたこの歌は、米国の歌が日本に移入されて、新しい歌詞として歌われ、ふたたび朝鮮に戻って、新たな歌詞が付けられた経緯がある。
この時期に日本の歌謡曲「カチューシャの歌」「張漢夢歌」「シドゥルン防草(枯れすすき)」などが韓国語の歌詞としてレコードに収録されている。
これに対し、「この風塵歳月」「死の讃美」などは、外国の楽曲に韓国人が創作したと推定される新しい歌詞が付けられており、韓国大衆歌謡史では初となる。
なかでもアルバムの発売では「この風塵歳月」が最も早く、1926年に朝鮮初のソプラノ歌手、尹心徳が歌った「死の讃美」は、発売後、彼女の恋人で劇作家の金祐鎭との心中事件がセンセーションを巻き起こし、韓国語の大衆歌謡曲アルバムの生産に拍車をかけた点で注目されている。
作詞・作曲まで韓国人によって作られた歌としてレコード収録した最初の作品は1928年、金曙汀が手がけた「落花流水」とトロット様式を取り入れた「3人の仲間」だ。
韓国大衆歌謡の出発と言われているのは、モノクロの無声映画「アリラン」(1926年)の主題歌となった新民謡(民謡風の歌謡)のアリランだ。
日帝植民地時代の大衆歌謡は、日本の歌謡曲を取り入れ、「ラシドミファ」のト短調5音階と「ドレミソラ」のト長調5音階や「ニ」の比重が高いトロット(当時は流行歌、流行小曲と呼ばれた)と、民謡に外来語などをミックスした新民謡の2本柱で形成され、ジャズやブルース、タンゴなど、西洋の言語をより本格的に使ったジャズソングが存在する。
トロットの歌はその後、李愛利秀が歌った「荒城の跡」(別名=荒城古跡)、高福洙の「他郷」(別名=異郷暮らし)を経て、1935年、李蘭影の「木浦の涙」でその様式が整い、以後、張世貞の「連絡線は去る」、南仁洙の「哀愁の小夜曲」、白年雪の「旅人の悲しみ」が生まれた。
一方、新民謡は創作者不詳の映画主題歌「アリラン」から始まり、姜石淵の「桐」を経て、姜弘植の「處女總角」と「レンギョウ峠」、鮮于一扇の「花をつかまえて」、朴芙蓉の「ノドゥル川辺」などで定着した。
新民謡の女性歌手は、伝統的な歌唱を学んだ妓生出身が目立ったという特徴がある。
◆光復後1950年代
「戦争の悲哀」を歌う…米国大衆音楽の影響も
左から、南仁樹「別れの釜山停車場」、安貞愛「大田ブルース」
植民地支配からの解放後も、分断によって作家と歌手の一部が北韓に渡ったが、おおむね作曲家が韓国に残り、1950年代まではトロットと新民謡が中心となっていた。
この時期、人気のあったトロット作品は、玄仁の「雨降る顧母嶺」、朴載弘の「泣きながら越える朴達峠」と「有情千里」、南仁樹の「青春告白」、新民謡では黄金心の「三多島便り」などで、歌詞や音楽はともに植民地時代とほとんど変わらない。
しかしトロットは分断と戦争という悲哀を表現することに成功したが、韓国政府樹立直後に発表された南仁樹の「消えよ38線」と1953年の「別れの釜山停車場」、玄仁の「がんばれ!クムスン」、李海燕の「断腸のミアリ峠」、韓正茂の「夢に見た私の故郷」などが代表曲となる。
それとともに、米国大衆音楽の影響を受け、さまざまな新しい現象が現れた。
トロットは張世貞の「故郷草」、申世影の「戦線夜曲」など7音階的側面が強くなる曲と、白雪姫の「春の日は行く」、安貞愛の「大田ブルース」のようにバラード系の曲が増え始めた。
新民謡でも米国音楽との融合が活発になり、黄貞子の「オ‐ドンドン打令」、「歌声チャチャチャ」、白雪姫の「桔梗マンボ」などが代表的だ。
この時期、大衆歌謡の活動領域は相変らずレコードと楽劇団だったが、日帝からの解放に伴い、それまで日本の会社で行っていたレコードの生産がなくなったことで楽劇団が全盛期を迎える。
また、彼らの多くは韓国戦争中に陸軍軍芸隊として従軍活動をした。休戦後は米軍のステージと放送局が新しい活動の場として登場し始めた。
1958年からは楽劇団が映画に押されて衰退し、トロットと新民謡の全盛時代は一つの区切りに向かって進んだ。
◆トロットと新民謡
「嘆き恨み」か「楽しさ」か…朝鮮楽劇団も人気集める
朝鮮楽劇団
トロットと新民謡は、歌詞と情緒的内容でも差が大きかった。トロットが結ばれぬ愛に対する嘆き、異郷をさまよう旅人に対する恨めしさなどを表現する歌なら、新民謡は自然と季節の美しさや郷土の暮らしを楽しく表現する歌が主だった。
一方で少数のジャズソングは、金海松の「青春ビルディング」、李蘭影の「喫茶店の青い夢」などにように、主に近代的大都市の暮らしを華やかに表現し、歌詞に外来語や大都市の生活習慣に言及する歌が多かった。
日帝末期の1940年代になると満州、中国と東南アジアなど異国的な歌と親日歌謡が新しい流れとして定着した。
この時期の主流はレコードと公演だったが、レコードは日本ビクター、コロンビア、太平レコードなど日本の会社で制作された。当時の韓国には、会社はもとより録音スタジオも存在しなかった。
一方、朝鮮楽劇団、半島楽劇団などのレコード会社を中心とする楽劇団が、歌や演奏、踊りを組み合わせたバラエティーショーや楽劇などを結合させ、総合的な大衆芸術公演物を行った。
◆1960年代から
米国風「ポップ」が大流行…映画主題歌も人気に
左から、韓明淑「黄色いシャツの男」、崔喜準「下宿生」、ペティ・キム「光と影」、金セレナ「セタリヨン」、李美子「島の先生」
1960年代の大衆歌謡の最大の特徴は、これまで主流の地位を誇ったトロットを抑え、米国風のスタンダードポップが浮上した。
1961年、韓明淑の「黄色いシャツの男」の大流行がそのきっかけとなったが、この流れをリードした作曲家、孫夕友は1960年代初め、単純で明るいスタンダードポップの最も重要な創作者として知られる。
1964年から映画主題歌の崔喜準の「素足の青春」と「下宿生」、玄美の「旅立つときは黙って」と「会いたい顔」、ペテイ・キムの「草雨」と「光と影」、金相国の「火の蝶」などがヒットし、初期の陽気な雰囲気を引き継いだ李シスターズの「ソウルのお嬢さん」、ブルーベルズの「楽しいお祝いの日」、ボンボン四重唱団の「花屋のお嬢さん」などが続いた。
作曲家としては1950年代にトロットとポップを行き来した朴椿石をはじめ、李鳳祚、吉屋潤らスター級作曲家をはじめ、鄭民燮、金浩吉などの楽団長を兼ねた作曲家が活動した。
スタンダードポップが1960年代をリードする新しい流れではあったが、トロットの影響力は依然として強大だった。
1960年代初めに急激な衰落の兆しを見せたが、1960年代半ば、李美子の「椿娘」を筆頭に「島の先生」、「雁父」などが相次いで人気を得て復活した。
以降、曺美美の「海が陸地なら」、裵湖の「帰る三角地」、「霧のかかった奨忠壇公園」、南珍の「カスマプゲ」、羅勲児の「愛は涙の種」などの人気が続いた。
1960年代のトロットは1930年代のトロットと異なり、田舎や郷土的イメージが強く、急激に産業化・西欧化する大都市と異なり、やや停滞して立ち遅れた田舎と下層民の疎外された感情と絶望を露わにする傾向が強かった。
一方、1950年代まで堅調だった新民謡は、1960年代に金セレナなどが人気を博したが、「鳥打令=セタリョン」、「カプトリとカプスニ」のように民謡、大衆歌謡のリメイク性格を持っている点で衰退の流れに乗っていた。
一方、1964年、「ビートルズ」の世界的なブームと合わせ、66年からステレオサウンドでLPが制作され、68年には女性ディエット「パールシスターズ」を皮切りに、ロックグループ「申重鉉師団」が活躍し始めた。
また、1961年の「5・16軍事革命」以降、韓国芸能協会が発足し、1962年に韓国放送倫理委員会、1966年に韓国芸術文化倫理委員会の活動開始で大衆歌謡に関する審議を主導した。
1960年代後半、李美子の「椿娘」をはじめとする多くのトロット歌謡が「倭色」を理由に禁止される法的根拠がこの時期に制定された。また、1968年にレコード法が施行され設備基準が適用され、1960年代半ばに40、50社に達していたレコード会社の数は10社に縮小された。
さらに、レコードはSPからLPに変わり、1970年前後にはモノラルからステレオ音響に変わるなど、収録技術が進歩した。
1961年に開局したKBSテレビをはじめ、1964年にTBC、1969年にMBCがテレビ放送を開始し、長い間維持された「3チャンネル時代」が幕を開け、歌謡界もテレビによる新しい活動の時代が始まった。
◆1970年代
フォークとロックと「釜山港へ帰れ」が大ヒット
左から、ヘウニ「カムスガン」、宋昌植、尹亭柱、金世煥、李相壁による「セシボンの友だち」、趙容弼「釜山港へ帰れ」
70年代に入ると、60年代後半からも流行の兆しを見せせていたフォークソングとロックが露出し始めた。
ロック系の変化は激しく、バンド出身のリード、ボーカルがソロとして独立し、トロットの旋律とロックサウンドをミックスした「トロット・ゴーゴー」の作品が人気を集めた。「桐の葉」の崔憲、「愛だけはしません」の尹秀一などが代表的で、「釜山港へ帰れ」の趙容弼もこの部類だ。
軍事政権の統制と既成文化に反旗を翻した青年文化の機運が強かったこの時期に、金敏基、楊姫銀、宋昌植、尹亨柱、徐維錫、金世煥、「4月と5月」などのフォーク系ミュージシャンや、南珍、羅勲児、韓大洙などの大型歌手が人気を集めた。
しかし、大麻騒動で大衆歌謡界は停滞するようになり、その間にMBCの「大学歌謡祭」やTBCの「海辺の歌謡祭」などの大学生向け歌謡祭を通じて、夜のステージ時代からキャンパスバンドの時代へと変化していく。
ちなみに宋昌植、尹亨柱、金世煥、李相璧は2010年に「セシボンの友だち」という合同コンサートを開き、再びブームを巻き起こし、往年の人気ぶりを見せた。
「セシボン」とは世宗文化会館の敷地にあったソウル市民会館の近く、武橋洞にあった音楽鑑賞室のことで、かつてはここが行きつけの場だった。
また、70年代後半には吉屋潤とのコンビでヘウニが「第3漢江橋」「カムスガン」などのヒット曲を連発する。
◆1980年代
趙容弼、幅広い支持…李仙姫、ユン・シネも人気
左から、ソンゴルメ「偶然出くわした君」、李仙姫の「Jへ」、アイドルグループ時代の先駆けとなったS.E.S
80年代前半はスーパースターの趙容弼が、後半はバラードの主導の中で、ダンスミュージックとアンダーグラウンドロックが躍進する様相を見せた。
80年代初めから半ばまで、最高のスターの座を譲らなかった趙容弼は、新しい作品傾向を先導する一方で、いわゆる、様々なジャンルを網羅する「百貨店方式」のスタイルで幅広い世代に受け入れられる曲作りをしていた。
スタンダードポップの旋律にロックを結合する方式は、「花一輪」の金秀哲、「偶然出くわした君」のソン・ゴルメ、「Jへ」の李仙姫、「熱愛」のユン・シネなど、この時期のほとんどの人気歌手たちのヒット曲がこのスタイルを採用した。
さらにこの傾向の他にも、モダンロックの「おかっぱ頭」、スタンダートポップの「情」、トロットの「一片丹心タンポポ」、「ミオミオミオ」、民謡リメイクの「恨みの五百年」に至るまで、フォークを除く韓国大衆歌謡史の全様式を網羅した作品世界を同時に見せてくれた。
80年代前半期は10代から中高年層に至る、ほとんどの世代から支持を受けた趙容弼が主導したとすれば、85年をきっかけに、より繊細な内面を華やかな旋律で歌う作品の人気が高まり始めた。多様なミュージシャンと豊かなジャンルが登場し主流とアンダーの境界が曖昧だった時期でもある。
また、大衆音楽の水準が一段階向上し、李文世、卞眞燮、申昇勲、イン・スニ、金完宣、朴南政、趙東振、金賢植、柳在夏など、実力派ミュージシャンが登場した。
◆1990年代
アイドルが起爆剤…ミリオンセラー相次ぐ
1990年代の「四天王」と呼ばれる伝説の男性アーティストたち。左から、金健模、李承哲、李文世、申昇勲
類例のない大衆の関心と参加で多数のアルバムが100万枚以上売れた時期だった。
金健模、李承桓、申昇勲らが主導した歌謡界は、「ソテジ」とアイドルがシンドロームを形成し、新世代文化の起爆剤となった。
また現在のK‐POPアイドルグループの前身となる、大手芸能事務所のスターシステムが構築され、「H・O・T」、「S・E・S」、「ジェクスキス」「ベビーボックス」などのアイドルグループ第1世代が音楽界を掌握し始め、主流傾向は一気にダンスミュージックに変わった。
このようなダンスミュージックの勢いは、バラードが申昇勳を中心にかろうじて命脈を保ってきたのとは非常に対照的だ。
◆K-POP時代
海外まで劇的な進出…スーパースターが次々と
2000年代ガールズグループの代表格「少女時代」とボーイズグループの「BIGBANG」
インターネットを基盤に変化した2000年代の大衆音楽はグローバル文化へと進化した。
「H・O・T」の北京公演以後、アイドルグループの海外進出によって「韓流」という用語が登場し始め、2009年の「BIGBANG」の日本デビューをはじめ、2010年には「少女時代」を筆頭に「KARA」「東方神起」「スーパージュニア」などが日本を始め海外で大きな人気を集め始めた。
また、PSYの記録的なヒットによってK‐POPの優秀性を世界に拡大させる役割を果たしている。
そして、コロナ禍に襲われた2020年、「第4次韓流ブーム」が到来した。内容の多彩さ、斬新さだけではなく、世界の市場を意識した販売戦略が注目された。
最初に話題となったのは、映画「パラサイト 半地下の家族」だった。米アカデミー賞で、最も重視される「作品賞」ほか「監督賞」など計4賞を受け、世界の映画関係者を驚かせた。
ドラマでは「愛の不時着」が、米動画配信大手ネットフリックスを通じて配信され、日本や米国でヒットした。
K‐POPも多くのファンを獲得した。この背景には、世界を意識したマーケティング戦略がある。
「BTS(防弾少年団)」など、アイドルグループのK‐POPが大流行し、「BTS」の「Dynamite」と「Butter」は米国ビルボードHOT100で連続1位となり、世界を席巻した。
しかし、注目すべきは、レコードの時代が、非常に早い終末を見せたということだ。
◆ネット時代に入りダンスの比重高く
米国ビルボードHOT100で連続1位を占めたBTS
インターネット時代に入り、大衆歌謡の配信は媒体からネット配信に変わった。
今や人々は、インターネットサイトやスマートホンでダウンロードして音源や動画を楽しむ時代になった。
このネット時代をいち早く駆使したのが、いわゆるK‐POPという名前で世界化された韓国大衆歌謡だ。
特徴は、とても簡単で単純な歌詞とそれほど難しくない音楽、セクシーさで大衆を刺激する歌手たちのキレの良いダンス、華麗なショー演出、そしてモバイルで素早く視聴できるスピードなどに要約することができる。
また、ステージの上で見せる華麗なパフォーマンスだけが魅力ではない。ツイッターなどのSNSで日常生活をファンに報告したり、VLOG(映像ブログ)でファンとコミュニケーションを交わすことで距離を縮めるなど、ファンを楽しませるという努力を常に忘れないため、多くの国と多くの世代を魅了している。
韓国大衆歌謡はK‐POPを中心に今後も多様なスタイルで世界にその魅力を発信していくだろう。
参考文献:韓国学中央研究院・韓国民族文化大百科事典、韓国大衆音楽博物館
(2022.01.01 民団新聞)