掲載日 : [2020-06-10] 照会数 : 6238
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<42>地島(宗像市)、若田宮
[ 地島から玄界灘を望む ] [ 和田神社(兵庫) ] [ 古代大輪田泊の石椋(兵庫津) ]
現地踏査で掘り起こした「足跡」
予想もつかなかったところで、朝鮮通信使の痕跡に触れたり、見過ごした場所に出会ったりして、そのときの縁に喜ぶことがある。
明治時代から朝鮮に出漁・移住した人たちの故郷を尋ねて、私は玄界灘と響灘を境に浮かぶ地島を訪れた。面積1・57平方キロメートルと、小さな島だった。宗像市の広報紙だけでは島の歴史が鮮明でなかったので、小学校の図書館を尋ねた。
そこで子供たちが作った資料の中に「朝鮮通信使」の文字を見つけた。その時代は享保4年(1719年)。通信使が玄界灘を渡り赤間関(下関)に向かっていたとき、激しい風雨となった。
通信使の船は漂流して、地島の藩主・黒田長政の命によって泊(とまり)港に造られた「殿様波止」に避難したのである。ところが幕府が用意する宿舎もなく、三使たちはしかたなく小さな西光寺を宿坊とし、通信使一行は停泊した船内で出航に備えた。そのときの逸話が『海游録』(申維翰著、姜在彦訳〓東洋文庫より)に記されていた。
「地島(じのしま)は、一名慈島ともいう。地は狭くして陋(ろう)、憩うべき館舎もない。居民は数十戸、草屋は蕭然(しょうぜん)としている。三使が国書を奉(ほう)じて西光寺(さいこうじ)に入る」
そしてもう一つ、宝暦14年(1764年)の『朝鮮信使来朝帰帆官録』に神戸の和田神社(通称・和田宮)と通信使の関わりが記されていた。「帰国途中に兵庫津へ寄港したが、東風が強くおまけに雨天のため防災作業が行われ、その後に暴風対策として和田神社へ立願した。すると翌日には海上は平穏で立願のおかげだと胸を撫で下ろした」。
私は海岸線『中央市場前駅』で下車して、和田神社へ向かった。その途中以前訪れたことのある通信使の宿坊「阿弥陀寺」を望み和田神社に到着した。
神社正面の大鳥居を潜り境内の高倉稲荷神社を覗いてみると、そこに飾られた約200年前の和田神社の絵には、鳥居の前に海が広がっていた。
現在と異なる風景だったので、社務所で尋ねてみると。明治26年(1893年)に国策として三菱造船所の建設計画が発せられ、神社は明治35年(1902年)に現在の場所に移されたという。
「蛭子の森」と呼ばれたご神域は、東南の方角の海岸沿にあったという。「和田神社の跡地」を記す石碑は、現在の造船所内にあるそうだが工場内とのことで取材を諦めた。
これまで書物などでつかめなかった歴史を、現地を歩いて知りえた。資料を基に対馬から海路を巡り、陸路を歩き取材してきた「朝鮮通信使」。これからも次なる「足跡」に出会う新しい旅に出かけている。
藤本巧(写真作家)
(2020.06.10 民団新聞)