掲載日 : [2020-07-08] 照会数 : 6639
<寄稿>韓国戦争から70年…朝鮮学校歴史教科書の記述を斬る<中>
[ 板門店で休戦協定に署名する両軍代表(1953年7月27日) ]
「解放戦争勝利」と美化、絶対化へ
参戦後中国が全指揮
北韓軍は奇襲南侵により3日後にソウルを陥落させ、破竹の進撃で南部の釜山周辺にまで迫った(「現代朝鮮歴史 高級1」は「全人民の積極的な支援の下、人民軍は戦闘の成果をより拡大して戦争が起きてから1か月余りの間に南朝鮮地域の90%以上と人口の92%以上を解放した」と記述)。だが、米国を中心とした国連軍が9月15日に仁川上陸作戦を成功させることで戦況は一変。国連軍がソウルを奪還し、38度線を突破して北上すると北韓軍は総崩れとなった。
北韓の存続自体が危ぶまれるに至り、金日成は、10月1日に毛沢東宛の書簡で「人民解放軍の緊急直接出動」を要請。スターリンも中国指導部に出兵を要請する電報を打った。10月19日にソ連軍の武器弾薬で武装した中国「自民志願軍」12個歩兵師団・3個砲兵師団が鴨緑江を渡り参戦。戦争の主役は北韓軍から中国軍に変わった。
12月にはスターリンの指示のもとに北韓軍は中国軍と連合司令部を構成させられた。中国側が指揮権を握り、北韓軍はその配下に入った。中国人民志願軍の彭徳懐司令員が中朝連合司令部総司令官に就任し、作戦は彭徳懐司令官が毛沢東の指示を受けて取り仕切っていった。後方の動員、訓練、軍政警備が北韓政府の仕事となった。
「金日成は今後も朝鮮人民軍最高司令官の肩書を保持するものの、戦争の作戦指導からは完全に排除された。金日成にとってこれは屈辱的な事態であった。戦争はこうして組織的にも米軍と中国軍の戦争になったのである」(和田春樹『北朝鮮現代史』)。
51年7月から始まった休戦交渉も、毛沢東が管轄していた。毛沢東はスターリンに定期的に状況を報告し最重要問題に関して忠告を仰いだ。休戦交渉本会談の場で総指揮をとったのは、彭徳懐から全権委任された中国軍代表の解方少将だった。中朝連合司令部の存在は、対外的に秘密に付され、公開されることはなかった。そのため休戦協定の署名(53年7月)は彭徳懐だけでなく金日成もすることになったのである。
ちなみに、休戦協定の署名者は、国連軍総司令官と、北韓軍最高司令官および中国人民志願軍司令員の3者だ。
休戦協定は、戦闘行為の停止とそれに伴う捕虜交換などの取り決めが目的であったから、国家首脳ではなく交戦当事者の軍最高司令官が署名したのであり、またその署名で十分であった。
金大中大統領は、金正日国防委員長との「6・15共同宣言」発表後の2000年10月、「休戦協定締結当時、米国のクラーク将軍が署名したが、これは国連軍代表(総司令官)として行ったもので、韓国は国連軍の一員だったので当然協定当事者である」(10月31日付「コリア・タイムズ」創刊50周年会見)と強調している。
韓国軍は50年7月14日の「大田協定」(李承晩大統領が臨時首都大田で駐韓米国大使を通じて韓国軍の作戦指揮権を国連軍総司令官に委嘱)に基づき国連軍司令部の指揮下にあった。
休戦時に120万人
中国は3年間に延べ300万もの兵力を投入したといわれる。中国側の支払った代価は大きかった。死者は公式的には11万6000人とされているが、実際は100万人に達したとみられている。中国軍の参戦と連合司令部の構成により、北韓の存続が保障された。
ちなみに、休戦の時点での中国軍は約120万人だった。中国軍は休戦協定調印後も北韓内に残り、鉄道線路の補修など、北韓の戦後復興に協力した後、58年10月に完全撤退した。
ところが、「現代朝鮮歴史 高級1」ではどうなっているか。
「日ごとに敗北のみを重ねて行き詰まり窮地に陥った米帝は1953年7月27日朝鮮人民の前に膝を屈し、板門店で停戦協定に調印した」「3年間の祖国解放戦争は、全朝鮮を占領し、さらにアジアと世界を制覇しようという米帝の侵略計画を破綻させた」としている。
そして「全世界の進歩的人民は、世界史上初めて米帝に打ち勝ち、祖国解放戦争を勝利に導かれた敬愛する主席様を『偉大な軍事戦略家』、『反帝闘争の象徴』として高く称賛し、わが人民を英雄的人民と称揚した」とし、「朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会は、祖国解放戦争で卓越した軍事知略と指揮によって敵に殲滅的打撃を与え、祖国の歴史に不滅の業績を積まれた敬愛する金日成主席様に1953年2月7日、朝鮮民主主義人民共和国元帥称号を、7月28日には朝鮮民主主義人民共和国英雄称号を捧げた」と教えている。
「6・25」の人的被害について正確な統計はないが、世界規模の大戦ではない個別の戦争において、その大きさ、直接には死者数の多さという点で突出していた。
南北死者400万人
和田春樹・石坂浩一編集『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』では「北朝鮮側は250万、中国志願軍は100万、韓国側は150万、米軍は5万の死者を出した」としている。
この戦争はまた、南北1000万人と言われる離散家族を生んだ。当時の人口は南北合わせて2865万人で、3人に1人が家族離散の被害者になった。休戦から67年にもなるのに、これまで南北間合意により再会を果たした離散家族はごく一部にすぎない。北側の拒否により、自由往来・再結合はもとより故郷訪問や定期的面会、そして書信の交換すらいまだに実施されていない。
金日成は、自らが開始した民族相食む戦争の責任を取らぬどころか、「外勢が強占した祖国の地を取り返す戦争」「祖国解放戦争」などと美化し自分の独裁体制づくりと神格化に力を注いだ。
休戦協定調印の翌日、平壌で11万市民を集めた「祝賀集会」での演説で、開戦や敗戦(武力統一失敗)の責任には触れず、「朝鮮全体を『植民地』にし、ソ連と中国に対する軍事基地に変えようとした『米帝国主義者』の企てを粉砕し、敗北させた」「わが国とわが人民が勝ち取った偉大な勝利である」と宣言した。
南北分断の固定化と軍事対峙の恒常化を招いた「6・25」を、北韓では「敬愛する金日成主席の卓越した領導により朝鮮人民軍と朝鮮人民は祖国解放戦争に勝利した」と喧伝。7月27日を「米国から降伏書を勝ち取った勝利記念日」と称して大々的に祝ってきた。
権力を世襲した金正日は97年4月、「朝鮮解放戦争勝利記念日」を国家的名節「戦勝節」に制定。そして金日成王朝体制を継いだ金正恩は2013年7月、休戦60周年にあわせて「祖国解放戦争勝利館」を全面改装、「勝利者の大祝典」として金日成広場で大規模な閲兵式(軍事パレード)を行った。
日本での北韓当局の忠実な代弁機関である朝鮮総連が運営する「朝鮮学校」の歴史教科書は、「民族教育」が、金日成一族への忠誠心を植え付けるために歴史を歪曲・ねつ造し、誤った歴史観を刷り込む「洗脳教育」であることを示している。
「わが民族」を「金日成民族」と呼び、金日成・金正日・金正恩3代を「わが民族の偉大な太陽」「民族の最高尊厳」などと称し崇拝させ、生徒たちを金日成王朝体制と総連のために忠実に貢献する人材に育成、奉仕させる「民族教育」が「金日成民族教育」であることは、在日同胞にとっては周知の事実である。
朴容正(元民団新聞編集委員)
(2020.07.08 民団新聞)