掲載日 : [2020-02-13] 照会数 : 7522
時のかがみ「やきもきと 心せくな」津川泉(脚本家)
[ (左)『金雲経TVドラマ短編集』(右)『金洙暎全集1詩』 ]
マッコリが呼んだ
忘れがたき邂逅
マッコリを呑むたびに口をついて出る唄がある。
マッコリが呼んでいる
ピンデトクが呼んでいる
棚の焼酎瓶が踊る
ピンデトクがにっこり笑ふ
この唄を教えてくれたのは山田太一を尊敬してやまない韓国の脚本家金雲経さんである。代表作は「黄金の林檎」「泥棒の娘」「ソウルの月」などなど。
「マッコリの唄」と覚えていたのだが、彼に確認すると正式には「ピンデトクがにっこり笑ふ」というタイトルだとか。軍隊時代の上官から教わった戯れ唄で韓国でも知らない人が多いとのこと。
あれは何年前だったか? 韓国放送作家協会の機関誌「放送文芸」に彼の肝入りのマッコリの店が載っていて、「マッコリが呼んでいる」とばかりに店のある一山の駅で落ち合った。
ところがついて見るとふぐ料理の店に連れて行かれ、ふたりの老紳士に引きあわされた。おひとりは不朽の名曲「新羅の月夜」などの作詞家の兪湖先生。JODK時代から作家活動を開始し、「兪湖(ユホ)劇場」という韓国で最初に作家の名前を冠した番組を作った方だ。もうおひと方は小津安二郎のフォースの助監督を経て、帰国後の65年、原田康子原作「挽歌」の映画監督をされた金秀東先生。
後から考えると韓国語の覚束ない私のために日本語の達者なお二人を用意し、ついでにおごってもらおうという作戦だったのかも。
「兪湖先生は韓国のジャック・プレヴェールです」と金雲経さんが紹介する。ならばと、わたしがアポリネールの「ミラボー橋」を諳んじて見せるや、今度は金雲経さんが「春夜」(金洙暎作)を朗々と謳いあげた。
やきもきと心せくな
川面にこぼれる光のように
赫々たる業績を望むな
犬が吠え鐘が鳴り月が昇っても
おまえは少しもあわててはならない
酔いから覚めた重い體よ
おお春よ(第一連拙訳)
その不思議に心地よい調べに魅せられソウルの本屋を駆けずり回って、購入した。詩人は68年に47歳でバス事故で亡くなっていた。
金雲経さんは詩人になりたいと詩人の墓に詣で「われに詩魂を与えたまえ」と祈ったものの、詩魂は降りて来ず、詩人ではなくドラマ作家になったと2次会のマッコリの店で話してくれた。今は無きその店の名は「パボ酒幕(馬鹿正直な居酒屋)」と教えてくれた。
先生方のその後の消息についても。兪湖先生は昨年98歳で亡くなられ、金秀東先生は胃がんの手術をし、一山を離れご健在とうかがった。
金雲経さんはといえば、3月からひと月ほど元気に南米に旅立つとのこと。
生きている伝説といわれた先生方たちとの邂逅はマッコリの味と共に忘れがたい。
そして、唄も詩も……。教えてくれてありがとう!
お知らせ 「時のかがみ」は4月8日号で終了します。津川泉さんは、今回が最終回になります。
(2020.02.12 民団新聞)