掲載日 : [23-09-08] 照会数 : 3507
関東大震災100年 4都県で殉難者を慰霊
[ 韓日国会議員を含む550人が参加した韓国人殉難者追念式 ]
[ 埼玉県上里町慰霊祭 ]
[ 民団千葉本部慰霊祭 ]
[ 神奈川県宝生寺で同胞慰霊祭 ]
過去胸に 共存共栄の未来へ
【東京】韓日国会議員が参列
関東大震災から100年を迎えた1日、民団東京本部(李壽源団長)は都内で韓国人殉難者追念式を執り行った。会場となった千代田区の東京国際フォーラムには韓日両国の国会議員を含む関係者550人が参列。受難の歴史を心に刻みつつ、傷ついた記憶を癒していけるよう共に努力していくことを誓いあった。民団主催の関東大震災追念式に韓日両国の国会議員が参列したのはこれが初めて。
主な参列者は日本側から自民党衆議院議員で日韓議員連盟の武田良太幹事長、同じく自民党の額賀福志郎相談役、公明党の山口那津男代表、立憲民主党の逢坂誠二代表代行(衆議院議員)、社民党の福島瑞穂党首、日本共産党代表名代の小池晃参議院議員、日韓親善協会の河村健夫会長ら。
韓国側から韓日議員連盟の鄭鎭碩会長、尹昊重幹事長、裵賢鎭監事、韓日親善協会の柳興洙会長、韓日親善協会中央会の沈允肇副会長ら。
経過報告に立った徐延敏副団長は大量虐殺の背景に言及し、「1919年の三・一独立運動が韓国への警戒心と恐怖心を増大させていたのは紛れもない事実」と述べた。
一方、未曽有の混乱のなかでも韓国人を命がけで守った日本人も多くいたとして神奈川県鶴見警察署の大川常吉署長を例示した。さらに、虐殺現場となった墨田区の旧四つ木橋の近くに私有地を購入し、追悼の活動を続けている一般社団法人ほうせんかの取り組みにも感謝と敬意を表した。
尹徳敏大使は追悼の辞で「不幸な過去が二度と繰り返されてはならない」としながらも、加害と被害の双方の立場から傷ついた記憶を癒していけるよう共に努力すべきだと訴えた。
また、追念辞に立った民団東京本部の李団長は、関東大震災が天災と同時に人為的な人災だったことを忘れてはならないと述べ、「過去の反省と民族差別解消の努力」(日本の内閣府中央防災会議報告書)を求めた。併せて未来を見据えながら韓日両国の共存共栄に向けた努力を誓った。
この後、韓国から来日した歌手、張思翼さんが追悼歌「春の日は行く」と「アリラン」の2曲を披露した。
最後に全員が特設の祭壇に献花した。参列者のなかには大川署長の遺家族である大川豊さんの姿も見られた。
【埼玉】埼玉では東京方面から群馬県に向けて避難する途上の本庄市、児玉郡上里町、熊谷市で在郷軍人会をはじめとする群衆の襲撃を受けた。1973年に発表された調査報告書によれば、同胞犠牲者は193人。毎年9月1日、各市町が主催して慰霊祭(追悼式)を行っている。 民団埼玉本部の崔洛文団長は各地の式典で「当時は国を失い、植民地の生活と差別と偏見の中で、その日その日を生きていくあなたたちになんの罪があったのでしょうか」と痛恨に満ちた追悼辞を読み上げた。
【千葉】流言蜚語は東京方面から来た避難民によっても伝えられたが、公的には9月3日朝、内務省から持ち帰った電文を行田にあった海軍東京無線電信所船橋送信所から送信したことから全国に広がった。千葉で犠牲となったのは北総鉄道(現、東武野田線・野田‐柏‐船橋)の敷設工事に携わっていた同胞労働者たちがほとんどだった。
犠牲者を多く出した民団船橋支部は1946年の創団以来、支部会館で韓国伝統の祭事形式に則った追念式を重ねてきた。しかし、近年は婦人会の高齢化で祭壇に飾る料理などの準備が難しくなり、今年100年を契機に県本部が1日、本部会館で執り行った。
主催者を代表して高炳佑団長が献花し、追悼辞を読み上げた。高団長はこのなかで「殉難同胞に対する哀悼と同時に、その真実の歴史を後世に伝え、二度と繰り返すことののない社会にすることが私たちに課せられら使命だ」と述べた。
午後からは専修大学で朝鮮近現代史を教えている田中正敬教授が「関東大震災は『混乱のなかで』起こったのか」と題して講演した。
【神奈川】神奈川県は人口比で最も多くの同胞犠牲者を数えた地域だ。横浜市には軍隊が駐留していない。在郷軍人会の活動は他の地域に比べて活発ではなかった。それでも人口のわりに虐殺被害がもっとも大きかったのは、治安対策を担当した警察の存在があったとされる。流言蜚語はこの神奈川の地から広がったという。
民団神奈川本部(李順載団長)は1日、横浜市南区の宝生寺で同胞慰霊祭を行った。昨年までは新型コロナの関係で、お寺の意向もあって人数を制限して行ってきたが、今年は通常開催となった。
民団関係者のほか、駐横浜総領事館から金玉彩総領事、横浜市からは国際局国際連携課の後藤勝課長が参列した。横浜市からの参列は2017年以来のこと。