掲載日 : [22-05-25] 照会数 : 7455
同胞集落の歴史を次代へ…長田区源平町を歩く
[ 曺弘利さんがスケッチしたかつての同胞集落鳥瞰図 ]
[ 曺弘利さんがスケッチしたかつての長田 ]
[ 集落の入り口だったトンネル。現在は閉鎖中 ]
同胞団体有志が調査結果を中間発表
【兵庫】神戸市長田区の旧トンネ(同胞集落)をたどる第1回フィールドワーク(FW)が15日にあった。地域の在日史を掘り起こし、次代へ伝えていこうと取り組んでいる同胞団体が呼びかけた。参加者は40人近くにのぼり、高い関心がうかがわれた。
神戸電鉄丸山駅北東側の谷間に位置する「源平町」。地名でわかるようにかつての源平合戦の古戦場に近い。ここに神戸有馬鉄道の敷設工事に携わった同胞とその家族を中心に多いときで百数十戸が暮らしていたとされる。集落は唯一の出入り口だったトンネルをくぐったところにあり、昼間でも薄暗い。
その歴史は1920年代半ばにまでさかのぼることが明らかになっている。標高200㍍近い山肌を自らの手で切り開き、飯場をつくり、バラックを建てて、3つの集落を形成した。北側からそれぞれ「ウックレ(上のくぼ地)」、「カンクレ(間のくぼ地)」、「アレックレ(下のくぼ地)」と呼ばれていた。いまはすべての住民の退きが終わったが、2006年までは間違いなく暮らしていたという。
これまでの聞き取りで住民の生活ぶりが少しずつ明らかになっている。 「地主が許可しないので電話が引けない。緊急時、道が狭いので車が入れない。源平町には19世帯ほどの朝鮮人が住んでいる。電機は通っているが、電圧が低いためクーラーが使えない。水道はある時期に無許可で引いたらその後、神戸市がメーターをつけにきた。下水道は整備されていない」(94年、玉山勇次さんの話)。
フィールドワークの案内に立ったのは在日韓国人3世の建築士、曺弘利さん(68)。21歳まで集落の近隣で生活していたことがある。数年前からかつての住民を探して暮らしぶりを聞き、記録している。
曺さんは「われわれ在日がひたむきに生きてきた記憶として記録し、次代に伝えていく作業を行いたい」と話す。なぜなら、これまで十分な調査がなされてこなかったためネット上に「ダークサイト(暗黒面)」、「北の工作員がいる」、「何されるかわからない」といった根拠のない風説がはびこっているからだ。
見学後、かつて源平町で暮らしていた在日2世(79)が参加者を前に次のように証言してくれた。
集落は決して外部から隔絶されていたわけではなく、周りの地域とも活発な往来があった。養豚が盛んで、餌となる残飯は湊川の八百屋・鮮魚店などから調達し、一斗缶にいれて、神戸電鉄を使って運搬した。たくさんあったが、車掌は全部おろし終わるまで、発車せずに待ってくれていたとのことだ。