掲載日 : [21-10-27] 照会数 : 8467
語り継ぐ被爆体験…在日韓国人2世の李鐘根さん
[ 「差別、戦争はあってはいけない」と強調する李鐘根さん(18日、広島韓国会館で) ]
【広島】在日韓国人2世の李鐘根さん(92、民団広島本部韓国人原爆被害者対策特別委員会委員長)が18日、広島韓国会館で自らの被爆体験を語った。民団広島本部(李英俊団長)が核なき平和な世界の実現を願って各支部と青年商工会など役員を対象に学習会を企画した。
年間6千人対象に
李さんは1945年8月6日、勤務先の国鉄第一機関区に向かう路面電車を降りて荒神橋を渡った瞬間、黄色みがかったオレンジ色の閃光が一面に広がるのを目撃した。当時16歳だった。
「街全体が光り、目の前にある家の壁に当たった閃光はたなびくように見えました。どこを見てもオレンジ色でした。周りの家は全部崩れていました。私が見た人たちは爆風で服がちぎれて、半分裸のような状態でした。皮膚は垂れ下がっていました。多くの人が『水をください』と言っていました。倒れていく人や亡くなった人たちもたくさん見ました。私はもし地獄があるならこの状態を地獄だと思いました」
李さんは廿日市平良村にある自宅に向かった。夕方4時に出て家に着いた時は夜の11時を過ぎていた。家に帰ると母親が「生きとったんか」と言って真っ黒い油だらけの李さんを抱きしめてワンワンと泣いた。
寝床についてもやけどが痛くて寝れない。薬はなく、赤チンを塗るくらい。しばらくすると皮膚が腐りはじめハエがたかり、ウジも湧いて悪臭を放つまでになった。母親は李さんを抱きながら「チュゴラ」(早く死んでくれ)と言いながら泣き続けた。幸いにも近所に住む日本人のおじいさんとおばあさんが湯のみに入れて持ってきてくれた植物性の油で命を取り止めた。
職場に復帰した李さんを待っていたのは戸籍謄本の提出だった。「韓国籍だと知れたらこの職場にいられなくなるのではないか」と、ずっと出していなかったのだ。憧れの職場だったものの18歳の時、給料も受け取らず、辞表も出すことなく国鉄を離れた。
日本の企業に再就職するにも身分証明書が必要。トラックの運転手をしたり、家族で飴や密造酒を造ったり、豚を飼育して売ったりした。その後、リサイクルショップを経営して生活が安定したという。
李さんはピースボートに乗船して立ち寄ったギリシャの学校で子どもたちに初めて自らの被爆体験を語り、差別、戦争はあってはいけないことだと強調した。2012年のことだ。それからは日本でも語り部を務め、年間6000人を対象に講演を重ねている。