2016年10月31日に朝鮮通信使の記録などがユネスコの世界遺産に登録されて1年が経った。民団もこの1年間、各地で朝鮮通信使行列の再現やシンポジウムなどを開催してきた。韓日の民間団体が共同で結実させた朝鮮通信使ユネスコ登録を、今後、民団と登録を推進してきた「縁地連」はどう活用するのか。韓国民団中央本部の呂健二団長と朝鮮通信使縁地連絡協議会の松原一征理事長との対談で忌憚のない意見を聞いた。
対談
呂健二・韓国民団中央本部団長
松原一征・朝鮮通信使縁地連絡協議会理事長
(司会 徐元喆 韓国民団中央本部事務総長)
盧大統領訪日演説で感動…団長
縁地連の恩人姜南周先生…松原
◆朝鮮通信使に関心を持ったきっかけは。
松原 対馬で今から約40年前に朝鮮通信使の行列を、日本全国に先駆けてやりました。ですから朝鮮通信使行列という言葉は知っていましたが、実際に朝鮮通信使の歴史的な意義は、1990年5月に日本においでになった盧泰愚大統領が国会演説や宮中晩さん会で述べた朝鮮通信使、雨森芳洲、対馬藩に触れる事績の演説で知りました。これに飛びついたんですね。「これで国内を取りまとめ、韓国にもこれを渡して活動しよう」と思いたちました。これが直接的なきっかけです。
団長 私も盧大統領が来日されて、雨森芳洲のような方がいたんだなと感銘しました。民団の副団長時代にソウルから東京に歩く友情ウォークの遠藤さんが民団に来られて協力を要請されました。東京でゴール後の催しに参加すると、川越の唐人揃いの人たちも来ていて、朝鮮通信使がこんな形で今、残っているんだなと思いました。それがまず最初ですね。
10年ほど前に「アリラン祭り」の時に対馬に行きました。東京でも松原理事長にお目にかかる機会があり、私は東京の韓日祝祭ハンマダン(日韓交流お祭り)の理事でしたから、柳興洙駐日大使にお話をしたら「理事には松原さんがいいんじゃないか」という話になり、通信使がぐっと引き寄せられました。
◆「縁地連」の設立経緯、主な活動内容、釜山文化財団との協力関係などをお聞かせ下さい。
松原 日本国内に朝鮮通信使が立ち寄ったところが、細かくいうと69カ所くらいあります。朝鮮通信使は対馬藩が中心となり、一切を仕切っていましたから、国内の通信使ゆかりの地に呼びかけて、朝鮮通信使交流とか文化交流、国内間の地域間交流をやろうとしました。
その活動ができれば、ゆくゆくは日韓の平和友好に少しでも貢献できるはずだという目的で、「縁地連」を作りました。1995年ですから23年になります。
釜山文化財団とは、「縁地連」を設立して2、3年後くらいに福岡大学に客員教授で来ておられた姜南周先生との運命的な出会いがきっかけになっています。私は福岡大学の卒業生で、そういう奇遇で知り合った姜先生に「日本で朝鮮通信使の活動をしています。先生もぜひ、韓国で取り組んでいただけませんか」と話しました。先生は専門ではなく、忙しいせいもあって、5、6年受けていただけませんでした。
しかし、先生の釜山での評判を聞いていましたから、私は粘り強くこの先生を外しては絶対にいけないという思いで働きかけました。姜先生が釜山文化財団を作ったのが2003年。そこから2人の交流がイコール「縁地連」と釜山文化財団との深い交流になっていきました。そういう強い絆があったからこそ、今回のユネスコの登録を実現させられたという思いがあります。
◆民団は「縁地連」ができて全国の民団にどのように対応してこられたのでしょうか
団長 副団長の時に「縁地連」のことが分かりました。私たちも地域社会の構成員の一員ですし、民団は地域社会との取り組みをどんどん深めていかなければなりません。ゆかりの山陽道、東海道の民団に呼びかけると、岡山は参加している、静岡もやっている。「縁地連」に入っていないところはこれから呼びかけていきたいですね。
松原 大変ありがたいですね。
団長 地域のいい財産になるからこれを活用して、地元の方と私たちの友好関係を活用し、町おこし、地域おこしに役立てられればいいかなと思っています。
◆朝鮮通信使関連の記録などが世界遺産になったということを、日本人の一人として、この間ご尽力された立場としての意義を一言お願いします。
松原 朝鮮通信使は平和友好の精神であるし、雨森芳洲先生が唱えた「誠信の交わり」、精神交流です。「相手を欺かず、争わず、真心を持って付き合う」という人と人、地域と地域、国と国の在り方を広めていきます。
日韓が手を組んで登録した訳ですから、日韓からアジア、アジアから世界へこれを発信していこうと思います。
地域の平和支えた通信使…松原
誇れる歴史を両国の絆に…団長
◆理事長を動かしている情熱は何ですか。
松原 朝鮮通信使の偉大さと対馬を背負っているという気持ちだと思います。対馬の先人たちがこれだけすごい、尊いことをやってきたということを、今こそ掘り起こし、日本全国、あるいは世界に問いたいという気持ちもあります。アジア社会自体の平和と秩序、維持、安定にすごく大きく貢献しているのは、世界の中でも特筆すべき歴史だからです。
◆団長として、世界遺産にどのような意義を感じていますか。
団長 この精神に学び、きちんと受け止めていき前を向いて、親善をきちっとやっていかなきゃいけないと思います。私たちは日本で生活をしていますし、日韓、韓日親善がないと生活が成り立ちません。日常生活で日韓、韓日親善をやっている訳で、私はいつもそれを空気のようなものだと言っています。意識しなくても、普通にやっていて空気が汚れたら呼吸困難に陥りますから、空気を汚さないできれいにしましょうと、その努力はみんなですべきです。
団長 理事長は通信使の資料館の準備をされているんですね。
松原 そうなんです。
団長 朝鮮通信使を世に知らしめた辛基秀先生のところにも遺品として沢山の資料があるでしょうから、辛先生のコーナーがあってもいいですね。
松原 辛先生の資料は私も15年位前から収集しています。今年には長崎県の歴史民俗博物館で朝鮮通信使展をやります。
◆民団は今年創団73年です。朝鮮通信使を今後、どのように生かしていきたいですか。
団長 誇れる歴史はもっと皆さんに知っていただき、皆さんが理解することで局面が変わってくると思います。いいものは伸ばしていく、悪いものは自制していく。朝鮮通信使は誇れる話じゃないですか。この精神を基調にしながら韓国と日本、日本と韓国の絆をより深めていかないといけないし、特に在日社会は複数国籍社会で、3世4世の時代は90%以上が伴侶は日本の人です。日本だ、韓国だと言っている場合じゃないですよ。
松原 そうですね。
団長 そういう生活をしている私たち在日がもっともっとこの意義を前面に打ち出して日韓交流、韓日交流の先兵にならないといけないんじゃないかと思います。韓日間で何か問題が起こると、私たちが一番辛いんです。日本の方も在日がこういう存在で、地域社会にともに暮らし、家族になっているということをなかなか理解していない方がいるんですよ。線引きされてあっちにいる人みたいな。でも今は点が線になり、実態はその線が面になっている現状をみんなが理解して、在日の現状を言い続けていけば、いい結果が生まれるんじゃないですか。韓国の人にも私は言います。「私たち在日の家族はここ日本」だと。玄界灘の向こうで無責任に騒いでも石が飛んでこないが、私たちには石が飛び、生活に直結する。デリケートな問題だから無責任なことを言いなさんなと。
若者を通信使船に乗せたい…松原
人の交流をまずいちばんに…団長
松原 韓国で昨年10月、木浦で朝鮮通信使の古代船を研究するという趣旨で、35㍍、幅9㍍の船を作りました。今年5月に対馬に寄せたいので、日本の「縁地連」に協力してほしいという話がありました。私の一番の課題は、この船に日韓の学生を乗せ、朝鮮通信使の意義などを若い世代に伝えていくことです。
日韓青少年友好の船みたいにして、日韓の学生が対馬に来て、朝鮮通信使を学びながら通信使のゆかりの大阪まで、それから陸路で東京まで、そういうことを実現させるように努力をしています。
団長 そこに在日の学生も乗り込んでいく。
松原 いいですね。21世紀を担う青少年たちに夢と希望を持って、そして通信使の歴史を学びながら友情を育んでいくことをやっていけば、1年間に70人、それを10年やったら700人です。
そこには何百人もの友だちや家族がついていますから、すぐに何万、何十万人と広がっていきます。これを何とか実現させたいという思います。
団長 これは現実にしないといけない。
◆最後にメッセージを
団長 若い頃に取材で会った韓国の元外務大臣がいいことを言いました。「外交は10年先を見据えてやる。目の前のことだけにとらわれていたら、本筋を見失う」と。今の外交はどうなんでしょうね。生身の人間に対する配慮というか目線が必要で、地に足がついて生活者のレベルでの外交や政治、国際交流をぜひやってもらいたい。そういう意味で一つの船に一緒になって、目的地に向かっていく。人の交流が一番大事だと。いい関係を作るにはまず交流しないと何にもならない。掛け声だけではだめなので、われわれも一つひとつ10年先を見据えて今の一歩をちゃんと歩みたいと思います。
松原 通信使が世界遺産になりました。誠信の交わり、平和友好の精神をいかに世界の人々に知らせるか。そのためには今、釜山文化財団と図録を作り、それを配布します。次は見えないものが見える、読めないものが読めるようなデジタル化をして、世界の人々がいつでもアクセスできるように、世界に広げていくのが私たちの一番の目標です。それと青少年に朝鮮通信使の歴史的意義を伝え残していくことによって、差別や偏見のない多文化共生の社会を作る努力をしたいです。