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常識を覆す日本最大級の石室 渡来の東漢氏 真実の姿は |
奈良明日香村の真弓鑵子塚
奈良県明日香村にある真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳(6世紀中頃)の横穴式石室が、床面積が18畳分もあり、日本最大級だったことがこのほど確認された。これまでは、同じ明日香村にある蘇我馬子の墓とされる石舞台(7世紀前半)が最大級とされていた。真弓鑵子塚古墳は、渡来系の有力氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)の墓域にある。日本古代史に新たな謎の出現だ。
百済系の有力集団
蘇我馬子を凌ぐ権力者か
東漢氏とは、秦氏と並ぶ古代の渡来系有力豪族だ。始祖伝承によると、応神大王の治世(『日本書紀』では応神20年条・実際の年代では5世紀後半)に、後漢の霊帝(れいてい)の曾孫とされる阿知使主(あちのおみ)が、息子の都加使主(つかのおみ)とともに、党類17県・7姓の漢人(あやひと)を率いて、朝鮮半島の帯方から渡来したとされている。
この伝承では、渡来時期はある程度史実と考えられるとしても、秦氏が秦始皇帝の末裔と自称しているのと同様、始祖が後漢皇帝とは史実として認めがたい。実際には伽耶諸国のひとつ安羅(あら、安邪=あや)から渡来した人々が、擬制的に同族集団をつくりあげたと指摘する学者が多い。
ただし、漢氏を名乗る氏族は、西漢氏(かわちのあやうじ)や志賀の漢人、百済渡来の「今来才伎(いまきのてひと)」などを含め、秦氏が新羅系(新羅に併合された伽耶諸国を含む)としてまとまっているように、百済系氏族としてのまとまりがあり、実際は百済(百済に統合された伽耶諸国を含む)からの渡来氏族集団の可能性が高い。
日本古代史に新たな謎呼ぶ
真弓鑵子塚古墳の石室の広さは、古代史に新たな大きな謎を投じた。この時代、墓の規模はその人物の権力の大きさにほぼ比例する。明日香村周辺では、石舞台の石室は付近のどの天皇陵よりも広く、6世紀後半から7世紀前半にかけて、蘇我馬子は天皇をも凌ぐ事実上最大の権力者であったことを示すものでもある。
ところが、ほぼ同時代(6世紀中頃)の東漢氏の古墳・石室が蘇我馬子のそれより広いということは、これまでの常識ではまず考えられない。
日本書紀によると、592年に崇峻天皇が殺害された。殺害を命じたのは蘇我馬子で、実際に犯行に及んだのが東漢氏の倭漢直駒(やまとのあやのあたいこま)とされている。石舞台を凌ぐ国内最大の石室を建造した氏族の一員が、ほぼ1世代後には石舞台(古墳)に葬られた人物の『使い走り』の役割を担っているのである。
蘇我馬子による崇峻天皇殺害の命は、蘇我氏の権勢を示すと同時に「悪役」の印象を強く与え、馬子の孫・入鹿の殺害(大化の改新)を正当なものと印象づける伏線になっている。今回の発掘で、「崇峻天皇殺害」の真相や東漢氏の真実の姿が、今までの常識とはかなり違っているのではないかという疑念を新たに生じさせる。
子孫の史氏は訓読の発明者
東漢氏からは、古代政権を支えた多彩な官僚氏族を輩出したが、最も有名なのは『蝦夷征伐』の田村麻呂がいる坂上氏である。ほかには、公文書の執筆を担ってきた史(ふみと、文・書=ふみ、とも言う)氏も重要だ。一昨年に亡くなった漢字研究の世界的権威・白川静氏は、「本当の訓読を発明したのは、『史(ふみと)』として文章のことをやっていた、百済人だと思う」と述べている。
これまでの古代史研究ではあまり重視されていなかった印象がある東漢氏だが、発掘を契機にもっと注目されてもいいだろう。今までの常識を覆すような、大きな謎を秘めているかもしれない。
フリー・ジャーナリスト 吉成 繁幸
(2008.2.20 民団新聞)
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