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MINDAN「孝道賞」 コンテスト受賞作品
 民団で募集した「孝道賞」親孝行エッセイ・コンテストに、全国から多数の心温まる作品が寄せられた。厳選な審査の結果、7人が選ばれた。駐日大使特別賞(全文)をはじめ、各部門入賞作品(要約)を紹介する。

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駐日大使特別賞

伝えられ伝えていくべき事
李憲視(大阪府・中1)

 私は在日4世として日本の大阪という場所で生まれ、そして今までの13年間、大阪で暮らしてきました。小学校1年生の時から建国学校に通っている私にとって、今まで韓国人だからといって差別されたという記憶はあまりなく、拉致問題が大きく取り上げられている時に、少しからかわれたりしましたが、大きな苦労をしたという事はありません。

 しかし、ハラボジ、ハルモニの時代だけでなく、アボジ、オモニの時代にも差別というものがあると聞き、とても驚きました。

 私のハラボジは日本の大阪で生まれ、ハラボジのアボジがケガをしたため4歳の時に一度韓国へ行き、兄をたよって13歳の時に再び大阪に戻ってきたそうです。ハルモニも大阪で生まれ、ハルモニのアボジの仕事の都合で3歳の時に韓国へ行き、9歳の時に再び大阪に戻ってきたそうです。

 また、ウェハラボジ(母方の祖父)は東京で生まれ、ウェハルモニは福岡で生まれてずっと日本で暮らしており、一度も韓国に行くことなく亡くなってしまいました。

 今回、ハルモニに昔の話を聞くことができました。私のハルモニは兄弟が多く、幼い頃から女であるという理由から子守りをさせられており、学校には行かせてもらえませんでした。そのため、当時は日本語の読み書きができず、大変困ったそうです。

 また、食べ物がなく闇市に行くこともあったそうですが、ハルモニは闇市に行った時に捕まってしまい、2日間も留置所に入れられたことがありました。日本人であれば2日間も留置所にいなくて良かったのに、ただ韓国・朝鮮人という理由だけで入れられていたので、とても悔しい思いをしたそうです。

 ハルモニの時代だけでなく、アボジも似たような体験をしていました。アボジの学生時代は、韓国・朝鮮人の学生と日本人の学生とがケンカをしていた場合は、韓国・朝鮮人が警察に連れて行かれることが多かったそうです。

 オモニが暮らしていたところは、あまり韓国・朝鮮人がいないところだったので、オモニを含めほとんどの韓国・朝鮮人が日本名で生活していたそうです。オモニのことを周りの人は皆、韓国・朝鮮人だと知っていても差別とかはなかったのですが、本名を使うのは学校だけだったそうです。

 色々な人の話を聞いてみて、私はとても暮らしやすい環境にいて、そして何よりも、私は在日韓国人で良かったなとも感じました。もし、私が日本人であったならば、韓国を嫌いになっていたかも知れません。また、もし私が韓国で生まれ育っていたならば日本を嫌いになっていたかも知れません。在日韓国人だからこそ、お互いの国を認めあうことができ、とても好きなのだと思います。

 私は両国がもっと友好的になるため、私なりにできることを小さくてもいいからしていくのが恩返しになる気がします。私は伝統芸術部に所属しています。私自身、楽器を演奏している時が一番、韓国人であると実感します。全身の血が踊るような気がして、とても楽しいです。その私の気持ちがこもっている演奏で、韓国と日本に何かメッセージが伝えられればいいなと思っています。

 私に何ができるかはっきりわからないけど、この先、韓国と日本がとても友好関係になり差別などがなくなっても、私に伝えられてきたことや、私自身のことは伝えていきたいと思います。そのためには、まだ韓国に行ったことのないアボジやオモニ、行くことなく亡くなってしまったウェハラボジやウェハルモニの分まで韓国を知り、もっと好きになりたいと思います。

 最後に今まで言ったことはないけど、私を産んでくれたアボジ、オモニありがとうございます。そしてアボジ、オモニを産んでくれたハラボジ、ハルモニ、ウェハラボジ、ウェハルモニありがとうございます。たくさんの人々に感謝します。

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大学生・社会人部門賞

父母に聞けなかった祖父母の話
朴勝彦(滋賀県・民団役員(59))

 還暦の年に2年余りに及ぶ闘病生活に終止符を打つかのように、家族に看取られてこの世を去った父。陽が落ち、うす暗くなった病室のベッドに、痩せこけた身体を横たえていた父の姿が、いまだに私の脳裏に鮮やかに焼き付いている。その後、母も脳溢血で倒れ60歳で亡くなった。

 「幸せだった。ありがとう」と思いつつ目を閉じたのか、知るよしはなかった。

 それから37年が過ぎた。もともと寡黙だった父は、子の前で多くは語らなかった。ほとんど同郷の母と向かい合って食事をし、食卓に酒が切れることがなかった父は、酒の酔いに任せて早く寝ることが多かった。

 ある時、父は「酒を飲まないと眠れない」と言った。その言葉に父の内面を少し見たような気がした。

 少し生活にゆとりができてきた晩年、済州島へ墓参りの準備をしていた父だが、癌に冒されて手術をしてからは入退院を繰り返し、とても墓参りに行ける身体ではなくなっていた。私は家計の足しにと、斜陽化しかかった家業を手伝い、夜はアルバイトに精を出して、韓国へ遊学するための旅費を稼いでいた。旅費の目処が立ち、家で静養していた父に「韓国へ勉強に行ってくる」と告げると、父は一言「お金あるのか」と、忘れもしない5万円をくれた。

 しばらくして、「父危篤すぐ帰れ」との手紙を韓国で受け取り、1カ月後に父は亡くなった。母から「彦は賢いやっちゃ」と父が言っていたことを後から聞かされ、私は言葉を失った。「早く元気になって、一緒にコヒャン(故郷)に行こう」と一言、何故、父に言わなかったのだろうかと、後悔をした。

 それから2カ月後、伯父に連れられて父が果たせなかった済州島への祖父母の墓参りに行った。饅頭のように盛られた祖父母の墓にチョル(礼)をし、「おやじ、祖父母の墓参りにきたで」と心の中でつぶやいた。

 私は、父が亡くなった同じ歳を、今年に迎える。干支も父と同じ「亥」だ。還暦を迎えるいま、私に何ができるのだろうか。在日として子や孫たちに語り継がなければならないことが、あるのではないだろうかと考えるようになった。

 私の息子や娘、4世である孫たちは、日本を生活基盤にしている。将来どういう道を選択するかは本人たちが決めるだろう。だが、私のような韓国人の父・母、祖父母がいたことは忘れないだろう。この地のプリ(根)は、枯れないと思う。


三浦氏やマザーの言葉の真実
藤原恵子(東京都・研究員(30))

 「そう。親を敬うことも、思いやることもなくて、幸せに生き得る筈はないのよ」。三浦綾子氏「明日のあなたへ」の中の一節である。この言葉を読むたびに、マザーテレサを思い出す。

 来日を日本の団体が願い出た時、マザーは豊かな国に行って讃えられることよりも、まだ行っていない貧しい国に行って活動する時間の方が今は大切だと正直に語った。そのことを母と話していて、母にとって親を敬うということは何なのか聞いてみたことがある。

 祖母は戦時中教師をしていた。子どもの多くは気が荒く、やんちゃで教師たちは随分手を焼いていたそうであるが、なぜか祖母の言うことをよく聞いたそうである。祖母はとても子煩悩な人で、貧しい家庭の子を家に招いてはよくご飯を食べさせ、それはそれはよく可愛がったそうである。

 その祖母にとって一番の悲しみは、戦争末期になって子どもたちが学徒出陣したことであった。駅で旗をふって万歳をして見送りの人の気が知れないと、生前に話していたことを覚えている。

 「こんな年寄りがのうのうと生き延びて、未来あるあの子たちの可能性をもぎとって、日本という国は…。あの子たちの犠牲は、本当に戦争の利に見合ったものだったのだろうか」。祖母はそう言って何度も母の前で泣いていたそうだ。その思いがあって、戦争が終わると祖母は親のいない子どもたちを家にたくさん住まわせていたそうだ。祖母はそういう人生を生きてきた人であった。

 私の母は自分の両親も夫の両親も最後まで看取って、天国に送った人である。だが、母にとって親を敬うとは、ただ最後まで看護してきちんと見送るということで終了するのではなく、親の信念を次の世代へと伝えていくことだという。母は罪を犯した親の子どもの支援や、少年院から出てきて、実の親から見離された子どもたちを家に呼んで面倒を見ていた。

 子がどんな重い病を患っていても、どんな罪を犯したとしても、親だけはその子の可能性を最後まで信じなければいけない。だが、もしその親が見捨てることがあれば、社会の親である私が面倒を見る。それが母の考えである。母は祖母の生き方をただの憧れにせず、継いだのである。大きなことを言う前に、大層な愛を語る前に、一番身近で一番恩のある人に自分は何をしているか。何をしてきたか。母の話を胸にしっかりと根付かせようと思う。

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中・高校生部門賞

亡き祖母から学ぶこと
小田虎賢(兵庫県・高3)

 祖母は4年前に、77歳の生涯を終えた。ひとり息子である父は、かなり落胆し、私も大切な家族の死に直面し、生きるということを考える機会となった。

 祖母は、日本軍が侵略戦争を仕掛け、人道的配慮を欠いた支配を強行した朝鮮半島の日本人学校の校長の娘として生まれた。優しい韓国人のお手伝いさんに育てられ、小さい時から人間に国境が無い事を学んできた。敗戦後、全てを失って帰国し、広島県北部の山間の地で私の父を生んだ。

 そんな祖母には、在日の韓国の女性で年齢も祖母と同年齢の友人がいた。各地を行商して歩くその友人が、時々家を訪ねて来ると祖母は目を輝かせて、なつかしい韓国での昔話をしたらしい。二人の会話はいつしかハングルへとなり、理解できない父は目を白黒させて、別人となる祖母を見つめていた。祖母と友人の女性は、何も知らないまま憎しみ合うのでは無く、常にお互いを理解し合う平和な世界の重要性を父に示してくれた。

 祖母が亡くなった年の夏に、父はある会議で韓国を訪れる機会を得た。亡くなった祖母が導いてくれたものと思い、長めの休暇をとって韓国を歩いたという。地図を片手に捜した景福宮の国立中央博物館では、韓国の歴史の偉大さに驚くとともに、日本文化の発祥はこの地にある事を感じたようだ。

 西大門刑務所歴史館では、同じ歴史を共有する人間に対しての非道の歴史に涙が出てきたと話した。韓国の国花であるムクゲは、花を咲かせ続けるその粘り強さから、抵抗のシンボルとされてきたことを知り、軍国主義の支配の深い爪痕を感じたという。

 父は祖母の希望でもあった教員を職業として選び、私たち家族に人間として生きることの大切さを示してくれた。祖母たちが日常生活の中で交わし続けた民間交流が、如何に大切であるかを理解し、その重要性を痛感しながら、家族とともに生き、地域とともに生き、そして世界観を持って生きることを教えている。 できることであれば、私も大きな世界観を持ち、人間として生きることの大切さを育てることに貢献できる生き方を、実践してみたいと考えている。


私が考える親孝行
朴ヌリ(東京都・高2)

 私は母方の祖母のもとで育った。両親が共働きだったので、祖母といっしょに暮らし、祖母といっしょに寝る日が多かった。毎日、祖母に連れられて近所にある市場へ散策に行った。その時、祖母の目を通じて世の中を知ったことが今の私の人生に大きな影響を与えていると思う。

 例えば、人と会ったら先に挨拶をする祖母や、ある家に洗濯物が干されていないことを見て心配する祖母の姿を見て、他人に関心を持つことの重要性を認識するようになった。

 そして、祖母は料理がとても上手で、私は韓国に住んでいたときはファーストフードみたいなものはほとんど食べたことがない。いつも祖母が作ってくれる料理を期待しながらおいしく食べた。このように、幼い時から日本に来るまでいつも祖母といっしょに暮らしたので、私にとって祖母は両親と同じように貴重な存在である。

 母が幼い時、母の家は祖父が仕事に失敗してとっても貧しかったそうだ。祖父はお金を稼ぐためにいつも家をあけていたので、祖母は編み仕事をしてお金を稼いだ。そして、母を含めた4人の兄弟姉妹は、祖母が仕事を終えて帰るまで仲良く集まって話をしたり、勉強をしたりしながら待ったという。

 そのような困難な状況の中でも、祖母は4人の子どもをみんな大学まで行かせた。

 でも、祖母は「勉強しろ」という言葉は一言も言わなかったという。自ら必要性を感じて勉強することが重要だと思ったのである。祖母がいつも強調したのは兄弟姉妹の間の思いやりだったという。そのせいか、母は今も他の兄弟姉妹ととても仲がいい。

 最近、日本で「いじめ」が社会問題になっている。私はいじめられた生徒が自殺という選択をすることで問題がさらに拡大するのではないかと思う。その生徒たちは、親孝行という観点から見ると、よくないことは確実である。

 韓国では「親より先に死ぬことは不孝である」といわれる。私は娘としてたくましく自分の人生を生きることが親孝行ではないかと思う。つまり、両親に親孝行をすることは、自分が生きていろいろな苦難と逆境を乗り越えることである。

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小学生部門賞

祖父に聞く祖父母のあゆみ
呉世羅(東京都・小5)

 祖父は1933年、日本が韓国を支配していた時に、9人兄弟の5番目に生まれたそうです。その時代は悲惨で過酷な生活を送るしかありませんでした。食べ物もなく、着る物もなかった祖父は、9人兄弟であったため、食事をする時も食べ物の取り合いをしたそうです。一つの部屋で家族全員が寝ないといけなかったそうです。

 私の父が生まれてからも、その生活は続いて、ぜいたくな暮らしは出来なかったといいます。4人もの子どもをもうけた祖父は、父たちのためにお金をかせぐことに一生懸命だったそうです。その時代は学校へ行かせるのも苦労するというのに、子ども達を大学まで行かせたいがために、自分のしたいことをがまんしたそうです。しかし、祖父は私の父たちに人生の夢をかけることだけが唯一の楽しみだったのです。

 祖母は1937年、4人兄弟の一番上の長女として生まれたそうです。祖母も祖父と同様に、貧しい暮らしをしてきたといいます。とても優しく、おおらかだった祖母は、家庭をとても大事にしていて、父たちからもすごく尊敬されていたそうです。父の話によると、祖母に嫌な思い出はあまりなかったそうです。

 子ども達のために人生の大半をかけていた祖父、家庭の豊かさを支え、とても優しかった祖母。その子どもとして生まれた父は、自分の父と母が、とても自慢の両親だといいます。父も祖父母のように、これからも頑張って働きたいといいます。父は祖父母との思い出が少なかったが、一緒に暮らせた分、とても幸せだったと心の底から思った、と語ります。


親孝行
鄭俊(大阪府・小5)

 昔、オンマが小学生の頃は、貧しい人が多くて学校に弁当を持って行けない子もいたくらいでした。しかもオンマは5人兄妹だったのでハラボジ、ハルモニは大変苦労したそうです。

 それでもハラボジ、ハルモニはいっぱい働いて大学までずっと勉強できるようにしてくれました。オンマがハラボジにセーターを買おうと、2カ月も家族に秘密でアルバイトをしてプレゼントをしたとき、ハラボジはとても喜んでくれたそうです。ただ、ハラボジ、ハルモニは子どもたちが元気で幸せに暮らせればそれでいいと言い、結局オンマはお金を貯める前に親が亡くなってしまったので、もっとたくさんの親孝行ができなかったとさびしそうに言っていました。

 アッパが子どもの頃、ハルモニは勉強にとても厳しかったということです。アッパはとても本が好きで、もらった電車賃で本を買い、学校から家まで歩いて帰ったこともあったということです。 ハラボジの仕事がうまくいかなかった時、アッパは大学を休んで家を手伝いました。そのため大学を卒業するのにみんなより2年遅くなって、6年目にやっと卒業できたそうです。また、大人になって韓国と朝鮮を一つにしようと「ワンコリア」という大きなイベントを成功させたりしたことも大きな親孝行のひとつだと思います。

 自分をここまで育ててくれ、勉強も教えてくれ、韓国の学校である建国にも入れてくれ、欲しい物をかってくれるぼくのアッパ、オンマ。ぼくはそんなアボジ、オモニを誇りに思います。

(2007.2.21 民団新聞)
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