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秘めた思い曲に乗せ 作曲家 中川博之さん
「今も昔も 優しいソウルよ」

 『ラブユー東京』(黒沢明とロスプリモス)、『サヨナラ横浜』(石原裕次郎)、『さそり座の女』(美川憲一)など、数々のヒット曲を手がけてきた作曲家の中川博之さん(72)。植民地時代の京城(現ソウル)で生まれ育つ。疎開先の北韓、平安南道の陽徳で敗戦を迎え、進軍してきたソ連兵から逃れるため、命がけの逃避行を送った。2009年10月に発売したシングルCD『ソウル・愛ふたたび‐愛をありがとう』(日本クラウン)は、母をモチーフにした。幼少のころに永遠の別れとなった母親と、韓国で出会った心優しい人たちへの思いが詰まっている。

■□
疎開の先で 50年ぶり再訪で
受けた愛 忘れ難く

 「これまで心に秘めていた思いをこの曲につぎ込んだ。自分自身で癒され、安堵している」。中川博之さんは、はればれした表情で語る。

 自らが歌う『ソウル・愛ふたたび』は、中川さんの作曲生活45周年を記念して発売されたシングルCD。04年、40周年を記念したアルバム「出逢いと別離 愛のものがたり」に収録された『我が心のソウル』の歌詞とタイトルをリメイクした。

植民地時代の京城で過ごし

 「京城府中区櫻井町…」。植民地時代の京城で通った櫻井国民学校の住所だ。今でもはっきりと覚えている。京城で長男として生まれた。父親は呉服商をしていた。当時、歌好きの母親が特に好んだのは、40年に高峰三枝子さんが歌い大ヒットした『湖畔の宿』。韓国の『アリラン』『トラジ』なども聴いている。 平穏な生活が続いた。だがそれも、あるできごとで一変する。41年、忌まわしい太平洋戦争が起こった。日本は兵隊を補充するために一般人を集めた。父親も例外ではなかった。激しさを増すなか、母親は子どもたちと北韓の陽徳で食堂を営む祖父の元へ疎開。1カ月も経たないうちに45年の敗戦を迎えた。

ソ連軍からの逃避行4カ月

 この日を境に、従業員を伴った約4カ月にわたる逃避行が始まる。進軍してきたソ連兵から逃れるためだ。「日本は負けた、殺されるかもしれない」という不安が日本人の心をよぎった。「皆、韓国人に見えるように変装した。日本語を話してはいけない、口を聞いてはいけないなどいろいろあった」。日本人は陽徳から平壌へ向かう貨物列車に押し寄せた。

 だが、緊迫した状況のなかでも韓国人は優しかったという。「気をつけていくんだよ、お母さんの言うことを聞くんだよと声をかけてくれた」。食べ物を持たせてくれた人もいる。

 平壌で日本人は、学校の講堂のような場所に収容された。毎晩のようにソ連兵が女性たちを求めにきた。電灯を消すと天井に向かって発砲した。恐怖の夜をただじっと、息をこらして過ぎるのを待つほかなかった。当時、「京城には戻れない」と悲観した母親は4人の子どもを連れて、市内を流れる大洞江で死のうとしたこともある。

 京城に向かう道中では、足手まといになると赤ん坊を道端に置き去りにしたり、口を押さえる光景を見ている。命からがらでたどり着いた京城の収容所で、父親と奇跡の再会を果たす。母親は口も聞けないほど弱っていた。夫との再会からまもなく33歳の若さで逝った。極度の過労からくる急性肺炎だった。中川さん8歳。「言葉に出ないくらい悲しい、辛い。何とも言えない」

悲しみを胸に引揚船で帰国

 深い悲しみのなか、46年に引揚船で帰国。父親の故郷である岡山県新見市で暮らす。行商をしながら、子どもたちの面倒を見る父親には限界があった。再婚するが「僕には優しいお袋のイメージがある。その当時は義母と喧嘩の毎日だった」。どうしてもそりが合わない。母親の故郷、山口県光市で一足先に帰国した祖母の元から小学校に通う。

 中学生のとき唯一、心を癒してくれたのがギターだ。祖母に買ってもらった。「学校に行くときは押し入れに大事にしまい、早く帰って弾きたいと思っていた。嬉しい時も悲しい時もギターだった」。このころから作曲を始める。

 高校時代に音楽家を目指す。「母親の好きだった歌謡曲を作りたかった」。迷いはなかった。18歳で単身、ギターとカバンひとつを持って東京へ。新天地でさまざまな人たちと出逢い、夢に一歩ずつ近づいていくことになる。

苦労が実ってラブユー東京

 カメラの下請け工場、ガソリンスタンド、劇団のマネージャー業などに就く。25歳のとき、作曲家の「いずみたくミュージックオフィス」を前身とするCMソングの制作会社、「国際芸術協会」在籍中に作曲したチョコレートのCM曲がデビュー作となった。その後、大手企業のCM曲を手がける。

 このころ銀座の「銀巴里」で、黒沢明とロスプリモスのメンバーと出会った。彼らのために作ったオリジナル曲『ラブユー東京』は、作曲家としての人生を決定づけた。

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一時は韓国に背を向けた
心の原点 また行こう

 「なんといっても今はソウルなんです」。中川さんの顔が輝き出す。母親を亡くし、いろいろな悲劇があった韓国に背を向けてきた。99年、私用で北京に向かう途中、上空から韓国が見えた。懐かしかった。さまざまな思い出が頭のなかを去来した。この年、50年ぶりに韓国に渡った。

 03年、仕事で訪韓した時のことだ。「通った学校、住んでいた家をもう一度、確認したかった」。中区役所に行き事情を説明した。若い男性職員が同行してくれた。校舎は新築されていたが、学校は当時の場所にあった。

 祖母が暮らした鉄筋3階建てのビルも見つけることができた。驚いたのはビルを見上げたとき、看板に「光子…事務所」と日本語で書いてあった。光子とは亡くなった母親の名前だ。一緒だった妻で作詞家の高畠じゅん子さんも確認している。写真に収めたつもりが、そのカットだけ写っていなかったという。

戦争の体験を伝える自叙伝

 04年に意を決して刊行した自叙伝の「歌との出逢い 愛とのめぐり逢い‐中川博之物語」。あとがきに「いまここで私の生い立ちを語っておかなければ、日本の犯した戦争という過ちも、悲惨な歴史があった事実さえも、シャボン玉のように消えてしまいそうに思えた」としたためた。

 「母子の歴史、母の死、戦争というものがあったから、今の僕の仕事がある」。2度と戦争が起きてはいけない。だからこそ自らの戦争体験を語りつぎ、『ソウル・愛ふたたび』を歌いついでいきたいと思っている。

 「戦争の残した傷跡、爪痕は大きい。でも韓国は僕が生まれ育った場所。だから愛着があり、親しみもある。50年ぶりにソウルに行ったとき、韓国の皆さんに本当に優しくしていただいた。だからまたソウルへ行こう、ソウルへ行こうと思う」

 夢は広がる。「自分の原点」だと話す韓国で、活動を展開してみたい。

■□
ソウル・愛ふたたび

語り尽くせぬ 思い出がある
恋の傷あと 帰らぬひとよ
忘れられない ふたりの絆
熱い涙で 訪ねた都
 ソウルあなたがくれた
  ソウル真実の愛
 ソウル時間を越えて
  今たたずむソウル
ああ明洞(ミョンドン)よ
 東大門(トンデムン)よ
ソウルソウル 愛よふたたび

長い歳月(としつき)心にのこる
ぬぐいきれない あの夏の日よ
けれどわたしは この街に来て
会えた気がする 失くしたものに
 ソウルあなたがくれた
  ソウル真実の愛
 ソウルここから旅が
  今始まるソウル
ああ南山(ナムサン)よ
 南大門(ナンデムン)よ 
ソウルソウル 愛よふたたび

 ソウルあなたがくれた
  ソウル真実の愛
 ソウルこの歓こびに
  今感謝をソウル
ああ漢江(ハンガン)よ
 広き大河(かわ)よ
ソウルソウル 愛よふたたび

 (高畠じゅん子:作詞、中川博之:作曲、前田俊明:編曲)

(2010.1.1 民団新聞)
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