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特集 国交40周年…生活権確保へ主張貫く
生活権確保へ主張貫く…法的地位で民団が総力

 韓日会談は51年9月25日、連合国軍総司令部が日本政府に対し、在日韓国・朝鮮人の法的地位について韓国と協議するよう指示し、なおかつ積極的に斡旋したことによって始まった。その法的地位問題は、同会談がそれに始まりそれに終わったと言えるほど、一貫して重要な争点を占めた。今でこそ永住は当然のことと認知されている。しかし、当時の日本政府の基本姿勢は全員送還、あるいは追放であった。この間の180度とも言える状況変化は、民団の存在を抜きに語れない。民団は韓日会談にどう臨んだのか。

 連合国軍総司令部が在日の法的地位を重視した背景には、在日朝鮮人連盟(45年10月結成)、在日朝鮮統一民主主義戦線(50年8月結成)など、「日本革命の成就なくして朝鮮革命の遂行なし」を叫ぶ左派勢力に勢いがあり、それへの対処が韓国戦争の勃発によってより深刻な問題になったことがある。

法的地位巡る両国認識の差

 当時の吉田茂首相は常々、在日韓国・朝鮮人を犯罪者、穀潰し、厄介者の集団とこき下ろし、全員送還を主張していた。植民地支配と戦争遂行責任を追及され、賠償を要求される立場の日本は、議題を法的地位問題に限りたいのが本音だった。日本政府は当時、在日韓国・朝鮮人問題にどのような視点を持っていたのか。

 サンフランシスコ講和会議に、米国は韓国を連合国の一員として参加させ、平和条約に署名させる方針であった。しかし、英国と日本の反対で実現しなかった。日本の反対理由は、「韓国は解放される国であって交戦状態になかったこと、もし署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになって不都合であること」などであった。

 韓国が45年8月9日以前から居住する在日同胞に、永住権を付与し、強制退去をせず、内国民待遇をするよう求めたのに対して、日本は「40年間の特殊な時期(植民地支配)に発生した異例の既成事実を、これからも永久に波及させることはできない」と拒否した。

 これが猛烈な反発を受けると日本は、戦前からの居住者に対して永住権を認めると回答したものの、「韓国政府は暴力革命分子又は日韓両国の親善関係を阻害する虞れのある在留韓国人の退去強制につき積極的に日本政府に協力する」ことを求め、さらには在日6万人に対する生活保護費6億6000万円(年間)の打ち切りも主張した。

 当時の日本は、韓国戦争の特需によって経済を急成長させ、戦前の最高水準をすでに凌駕させていた。

 半面、在日同胞はその成長から取り残され、その貧しさが際立つ状況にあった。同胞を追放・排斥しようとする日本の態度は、政府やマスコミなど立場を問わない時代の空気とも言うべきものだった。その典型を、65年3月31日付の朝日新聞の社説「法的地位には筋を通せ」に見ることができよう。

 「子孫の代まで永住権を保障され、しかも広範囲な内国民待遇を確保するとなると、将来この狭い国土のなかに、異様な、そして解決困難な少数民族問題を抱え込むことになりはしまいか。(中略)将来に禍根を残さないよう、法律上のスジを通しておくことが特に肝心だといいたい。(中略)独立国家の国民である韓国人が、なにゆえ日本国内で特別扱いされるのか、その説明にそれこそ苦労しなければならない時代が来るのではないだろうか。財産請求権のように、いわば過去の清算に属する事柄と、在日韓国人の法的地位のように、それこそ子々孫々につながるものとは性質が違うのである」

 会談開始から14年も経過し、韓日間のやり取りや在日同胞の声もある程度つかめたはずの時点での社説である。在日の法的地位問題がいかに厄介な問題とされていたかが分かる。

 一方、「在留資格なき在留」の状態にあった在日同胞にとっては、生活の最低限の基礎を確保する意味で死活の問題だった。結成宣言で国際親善を掲げ、早期の韓日国交正常化と友好親善こそ、両国の発展と在日社会安定の絶対条件と認識してきた民団は、予備折衝初日の51年10月20日、韓日会談促進のための会議を開き、交渉に民団代表が参加することなどを要求している。

在日同胞の苦境を直訴

 しかし、韓日会談は度々暗礁に乗り上げ、中断を余儀なくされた。李承晩ライン設定で相次いだ日本漁船拿捕、日本側の在韓日本人資産に対する請求権主張、在日同胞のいわゆる北送問題、韓国戦争や韓国の政変(4・19学生義挙、5・16軍事革命)、韓国の屈辱外交反対運動などさまざまな要因があった。

先国交・後懸…案解決の方向

 この間にも民団は、窮乏化していく同胞の生活を少しでも救うべく、日本政府に何度となく善処を申し入れている。しかし日本政府は、会談が妥結してこそその対策を立てられる、とかわすのが常だった。会談に対する期待と現実の落差の大きさに、民団は地団駄を踏み続けた。再び期待が膨らんできたのは、日本政府が早期妥結に前向きになったのに加え、5・16軍事革命で誕生した朴正熙政権が「先国交・後懸案解決」の方向に転じてからだ。

 しかし、肝心の法的地位問題について、日本側は追放・排除の基本姿勢を変えず、韓国側は在日同胞に関する問題意識が希薄で、なかには帰化するのが望ましいと平然と語る高官もいて、民団としては自分たちの将来を韓国政府に一任するわけにはいかなかった。対日交渉以前に、まず韓国政府を説得しなければならないという、二重の壁に直面していたのである。民団は是が非でも自らの意見を会談に反映させなければならなかった。

 62年12月に法的地位対策委員会を設置した民団は63年2月、東京・日比谷公会堂で韓日会談促進・法的地位要求貫徹民衆大会を開催、韓日両政府に対して働きかけを強め、それは地位協定の内幕が明らかになるにつれ激しさを増した。

 64年2月1日に大阪・中之島公園で開かれた民団近畿地方協議会の法的地位要求貫徹民衆大会では、韓国代表団の弱腰に「対日屈辱外交反対」まで叫ばれた。同月14日の東京・日比谷野外音楽堂での同大会後は、現状の対日交渉は受け入れられないとし、韓国代表団の退去を求める大規模な街頭デモまで展開した。

永住権の拡大…粘り強く主張

 民団は3月27日に陳情団を派遣し、韓国政府に強硬に直訴した。その結果、民団代表が法的地位専門委員会にオブザーバーとして参加する資格を獲得し、韓国代表団の顧問として在日同胞の意見を積極的に反映させることができたのである。民団の法的地位対策委員会がもっとも問題にしたのは、まず永住許可の範囲であり、ついで強制退去事由、そして待遇であった。65年3月までには基本条約など大半の懸案が処理されていたにもかかわらず、法的地位は妥結を見ていなかった。

 61年10月に始まった第6次会談で、永住権付与範囲を「サンフランシスコ講和条約発効時までに出生した子」までに限ろうとしていた日本側は、65年3月時点でまとめた協定草案では、「終戦前から引き続き日本に居住している韓国人、およびその子孫でこの協定発行の5年後までに生まれた者」にまで拡大していた。

 だが、子々孫々に与えるべきだとする韓国側との溝が埋まるわけもない。経済的な側面から妥結を急ぐ韓国が、この問題で容易に妥協できなかったのは、ひとえに民団の反発が強かったからだ。日本側は結局、「協定発効から5年を経過した後に出生した者」にまで範囲を広げ、「さらにその子については韓国政府の要請があれば、協定発効から25年以内に協議することに同意する」と歩み寄り、ようやく最終合意に至った。

 民団は、法的地位と処遇問題に少なからず失望を禁じえないとしながらも、韓日両国の半世紀に近い不幸な歴史と不快な国民感情を清算し、両国の繁栄と幸福のために互恵平等、善隣友好の精神に立脚した国交正常化の基礎が確立されたとして、妥結を歓迎した。

 民団は66年6月6日に「第4次宣言」を採択、積み残された在日関連の懸案について両国政府の誠意ある速やかな対応を求めるとともに、参政権を除く政治的、経済的、社会的なすべての面において日本国民と同等の待遇を受けなければならないこと、在日同胞と日本国民間の友好と共助を造成し、韓日両国が互恵平等の原則のもとに相互繁栄と発展を図るよう努力することを明らかにした。その後民団は、ここに示した姿勢で一貫し、日本社会の様相を大きく変貌させた。

 65年3月時の社説で「将来に禍根」を残しかねないとした朝日新聞は90年4月5日の社説で、「民族の誇りを持ち続ける外国人に、国籍は違ってもこの国にともに生きる『市民』として安定した暮らしを保障することは、国際化をめざす日本の足元を確かなものにする一歩のはず」と主張するまでになった。

 また、65年当時、「『法的地位』で無理な要求」とまで突き放していた毎日新聞は、同じく90年4月26日の社説で、「(在日からは)とくに理不尽な要求はない。(中略)基本的には、在日韓国・朝鮮人には『同じ土地に住む兄弟』と考えるべきである」と述べている。

地方参政権の早期実現ぜひ

 そして98年10月、金大中大統領と小渕恵三首相が署名した共同宣言「21世紀に向けた新たな韓日パートナーシップ」には、在日韓国人が韓日交流の「架け橋」の役割を担い得るとの認識に立ち、その地位向上のために引き続き協議することが盛り込まれた。ここには民団が推進してきた定住外国人の地方参政権の早期実現が視野に入っていた。

 しかし、最高裁の「永住者などに選挙権を与えることは現行憲法のもとでも禁じられていない」(95年2月28日)との判断にもかかわらず、地方参政権問題は暗礁に乗り上げたままだ。民団の掲げる共生理念は、市民権を獲得するまでに浸透しつつも、また新たな壁に直面している。

(2005.06.22 民団新聞)
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