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| 朝鮮館があった地の隣に残る名木・臥竜梅(仙台市西公園) | | 「朝鮮館」のおもかげを伝える1950年10月20日付の河北新報 | <寄稿>杜の都に「朝鮮館」の復元を
<寄稿>呉世龍(仙台市在住)
招請工人の傑作…80年前の建立「臥竜梅」咲く地に
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先進文化・技術をもって韓半島から渡来した集団の足跡は、日本列島の至る所にある。東北地方でも、百済系渡来氏族で初の征夷大将軍であった坂上田村麻呂の行跡などが色濃く残っている。「だが、古代の史資料が少ないせいか、掘り下げる人が少ない」と語る仙台市の呉世龍さん(69・高麗屋代表)。韓日関係史の掘り起こしに情熱を燃やす呉さんが現在、もっとも力を入れているのが80年前に仙台市に建立され、その後に取り壊された「朝鮮館」の復元だ。その思いを寄稿していただいた。
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◆友好の絆を願う市民の手で
杜の都、仙台。かつて秀吉や家康とともに、天下制覇を夢みたこともあると言われる独眼竜・伊達正宗が起こした都市である。ちなみに、伊達政宗の正室・愛姫は、坂上田村麻呂の末裔とされる。
日本各地には韓半島の影響を受けた古刹や鐘など数多く見受けられるが、朝鮮建築がこの地にも存在していたことを知る人は少ないであろう。それは、青葉城跡の麓をとうとうと流れる広瀬川べりに80年前に建てられた。「朝鮮館」である。
朝鮮館は1929年4月15日から6月8日までの56日間、西公園を中心として開かれた東北産業博覧会で「朝鮮総督府」の協力で建てられたという。当時の主催者であった仙台商工会議所の博覧会誌には、次のように記録されている。
「本館は…第二会場(西公園)景勝の地に工費金弐万弐千五百六圓八十銭を以て、半永久的純朝鮮式に建築したるものとして…。本館は第二会場中央最も景勝の地を占め総坪一千百六坪五合九勺にして、物産品陳列場、事務室、食堂、炊事場、便所等に区画し外周に回廊を繞らし、渡り廊下により別館に通し、各出入口には一般昇降用の階段を設けたり、朝鮮式建物にして木造堀建て屋根は亜鉛鍍金青掘り鉄板葺とし、外壁腰廻りは人造洗出し仕上げ、柱軒廻り等は木骨にて化粧部分は漆喰、板、厚紙等にて被覆し、極彩色の絵様垂紙を以て装飾し、内壁及天井等紙張りとし、同じ人絵様型紙を貼付せり総工費金壱萬圓を要せり…」
このように、当時としては2万円余(別館建設費を含む)の巨額を投じ、建材と工人を直接朝鮮から呼び寄せ、1年がかりで建てたという。
直接見た人の話によると、造りが優雅で天井には極彩色の素晴らしい壁画が描かれ、建物が広瀬川べりに突き出していたので、ながめも非常に良かったという。
朝鮮館は博覧会後、仙台市の保存管理下に置かれたが、保存記録は皆無であった。
◆戦火免れたが修復かなわず
そこで当時の保存管理にたずさわっていた人々の記憶をたどってみると、第2次世界大戦前までは市都市計画課で管理していたが、その後、文化観光課で管理していたとのことである。
戦災を免れたが、永久保存の声もむなしく、修復予算がないとの理由で取り壊された。現在、その跡地に残っているのは、建物の土台に使われた御影石のみである。
奇しくも朝鮮館の隣りには、500年の永い道のりを歩んで来た「臥竜梅」が彼の地の息吹きを運んで季節ごと未だに美しい花を咲かせている。
仙台の名木のひとつになっているこの臥竜梅は、伊達正宗が朝鮮から持ち帰ったものという。臥竜梅は幹が地面に三m余りもねじれるように這っているため、勇壮さを好んで古人が“臥した竜の梅”と名づけたものだ。季節ごとに可憐な白い花を咲かせて公園を訪れる人々を楽しませている。
根元から南北両方に幹を出し、いずれも水平に伏臥している。枝の拡がりは東西17m、南北22m、樹高9m、幹周は一番太いもので1・7mにもなる。花は遅咲き、白色単弁大輪で薫香が高く、果実は大きく2斗くらい収穫があるといわれており、宮城県の文化財に指定されている。
杜の都の杜は(ハングル発音のモエ=梅)が由来とも言われている。朝鮮館と臥竜梅は壇君族の魂をこの地に永遠に広めてゆくであろう。
建立80年を迎えるにあたって、学識者を中心に勉強会を重ねてきた。復元の願いを市民運動にまで高めたい。朝鮮館を再建することは、「総督府」の影を払拭すると同時に、韓日友好の絆をより強める一助になるのではないか。
(2008.11.12 民団新聞)
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