今も光放つ「民族の宝」 「脱北」から14年、思い募らす 「崔承喜をしのぐ舞は韓国にもまだない」。平壌で崔承喜(1911〜69年)の指導を直接受けた金英順さん(78)は、「韓国こそが彼女の舞を継承・発展させねばならない」「日本でもしかるべき人たちに伝授したい」と燃える胸の内を語る。よみがえる崔承喜の言葉の数々が今も、自分を突き動かしてやまないと言う。 舞踊家を志す英順さんは1953年、設立間もない平壌総合芸術学校(後の平壌音楽舞踊大学)に応募して20倍の競争を突破、1期生として幼いときから憧れた崔承喜の指導を受ける。卒業後、朝鮮人民軍協奏団に舞踊部専門俳優として入隊、68年に除隊するまで国家行事や金日成主宰の宴席など晴れの舞台にたってきた。 境遇が暗転したのは中国朝鮮族出身の夫が行方不明になった70年(後に、スパイ罪で20年の刑を受けていたことを知る)。家族7人ともども耀徳(ヨドク)収容所に送られ、79年に出所したときに家族は4人になっていた。その後も当局の圧迫は続き、脱北を試みるも果たせず、凍てつく豆満江を渡ったのは2001年1月。韓国に入ったのは03年11月のことだ。 世界各地で収容所体験を証言し、脱北者の実体験をもとに北韓の実情を訴えるミュージカル「ヨドクストーリー」の振り付けを指導するなど慌ただしく過ごすかたわら、「芸術の殿堂」や国立劇場で催される韓国舞踊のプログラムを数多く鑑賞した。募ったのは「余生を収容所に囚われた罪なき人々の解放と、独裁の犠牲になって果てた崔承喜先生の舞踊の継承に捧げたい」との思いだ。 「私の舞を体得した後、それを基本に人や動物、海、川、木々、空など自然のすべてから素材を得て、今の時代にふさわしいものを創造して舞いなさい。私と同じことをする必要はない」 そう弟子に語った崔承喜自身、新たな素材を求めてやまなかった。伝統の発掘にも、再創造にも貪欲だった。朝鮮総連系の歌舞団や朝鮮学校の舞踊も崔承喜の流れであり、そのスピーディーな動きを在日同胞の多くも感得したに違いない。 「古きものを新たに、弱きものを強く、失われたものを蘇らせるのが芸術なのだ」「舞踊に水平はあり得ない。強弱、高低、屈曲、瞬時の決め、間で惹きつける」「咲き誇る花のように舞いなさい。芸術は優雅で美しくあらねばならない」 崔承喜の言葉がとめどなく思い起こされる英順さんにとって、伝統墨守に傾く韓国舞踊界のあり方は飽き足らなく映る。 「古きものをただ引き継ぎ反復するだけではいけない。PSYのカンナムスタイルが世界を沸かせたように、崔承喜の舞をリファインし、スタイルのよい現代の女性たちが身につけたなら、世界にとどろく芸術、商品にできる」 「英順」の名は収容所にいた73年に「日本式の名前を捨て朝鮮式に変えよ」との金日成の指示を受けて付けられた「記号」だと語る英順さんは、「親日派のレッテルを貼って民族の宝である崔承喜をないがしろにしてはならない。必ず継承発展させねばならない」と老骨に鞭打つ覚悟だ。 宋允復(北朝鮮人権NGOノーフェンス副代表) ■□ 崔承喜(チェ・スンヒ) 15歳で渡日しモダンバレーの踊り手として才能を開花させ17歳で日本デビュー。だが、舞台芸術の基本は韓民族本来の歌舞遺産だった。そこに歩行、手や肩、脚の基本動作を理論化、体系化し、日本の能、琉球、蒙古、中国の舞踊からもインスピレーションを得た。最終的には東洋の思想・哲学に基づく新しい舞踊芸術を創造した。光復後、夫の安漠の求めに応じて平壌に入り、舞踊研究所を開設して後進の育成に努めたが、67年に粛清され、69年に死去。 (2015.11.25 民団新聞) |