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| 韓日両国語で「カスマプゲ」を歌い日本でヒットさせた李成愛 | 韓流の基礎つくる 意義深い「帰れ!釜山港へ」
在日が共に楽しめる歌を 求められる「第2のアリラン」
南北の違い鮮明に
1945年8月15日の歓喜の光復もつかの間、米ソ対立や左右葛藤、1948年の南北それぞれの政権樹立、悪魔のような6・25戦争、それによる離散家族など、この時期は歌謡史的に見ても大変な受難期であった。南北の体制の違いが歌にはっきりと現れても行く。 韓国ではレコード会社がなくなり、主に楽劇団(楽団)による公演で、「去れ38度線」、「新羅の月夜」、「断腸のメアリ峠」、「ああ38度線」、米風の「黄色いシャツ」、「リルリリマンボ」などが歌われた。
北韓では建国のための歌を作り、「愛国歌」「勝利の5月」、民謡風の「畑に行こう」などが流行った。
一方、在日の左翼民族団体は、社会主義的なリアリズムを取り入れて韓国で左翼が作った「解放歌謡」を歌った。その代表的なものに、「解放の歌」(イ・ジュホン作詞、金順男作曲)、「人民抗争歌」(林和作詞、金順男作曲)などがあり、民謡風の「農民の歌」、流行歌「別れ川」(アプカンムル)なども歌われた。
50年代の在日左翼の愛唱歌は「建設」(カチューシャ楽団作詞作曲)だろう。歌詞の「……赤いチョゴリ」という出だしから「赤いチョゴリ」とも言われた。「楽団カチューシャ」はシベリア抑留から引き上げてきた音楽家たちで構成した楽団で、在日同胞の音楽家もいた。
60年代に李美子が登場、激しい韓日会談反対闘争のさなかの64年に「トンベクアガシ(椿むすめ)」を大ヒットさせるが、倭(日本)色が強いとされ、公演で歌うのはもちろんレコード製作も禁止された。彼女はほかに何曲か、哀嘆調が過ぎるという理由だけで発禁の憂き目にあった。
日本に韓国歌浸透
だが、経済成長に乗り始めた69年、パティキムが「ソウル讃歌」をヒットさせる。60年代中盤以降、祖国との往来を活発化させた在日同胞の間に、韓国の現代歌謡がブームとなる。70年代後半には、「演歌の源流を探る」というキャッチフレーズのもと、「カスマプゲ」など韓日両国語で歌う李成愛の歌唱力が専門家筋に評価され、話題となった。
やがて、折からのカラオケブームに乗って、同胞の枠を超え、日本社会全体に韓国歌謡が浸透する。
80年代にはチョー・ヨンピルが「帰れ! 釜山港へ」によって一大センセーショナルを巻き起こす。日本人の熱狂的な韓国歌謡ファンが生まれたのはこの頃からだ。
「帰れ! 釜山港へ」が大ヒットした時代には、民団によって大々的に組織された朝鮮総連同胞の母国墓参団事業があった。総連同胞のほとんどが韓国地域出身だ。経済成長で自信をつけた韓国が胸を広げて、「南に帰ってこい」と呼びかけた歌と言っていい。1番の歌詞が「帰れ釜山港に……」とあるが、2番では「トラワッタ」(帰ってきた)となっている。
日帝時代から韓日間の窓口は釜山と下関だったわけで、そういう意味では韓国に「帰ってきなさい」、そして「帰ってきた」という意味が2番の歌詞に集約されていると思う。
イムジン江の悲哀
70年代に日本でも一躍知られるようになった「イムジン江」。北の「創建10周年の音楽夜会」で発表された。作詞の朴世永は北の愛国歌を作詞するほどの有名な詩人で、作曲の高定煥と共にソウルの出身だ。故郷に残してきた家族を思い、北から流れて漢江に合流し、西海に抜ける「イムジン江」をテーマに、分断による離散の悲劇を象徴的に歌った。北がまだ柔軟だった時代である。
06年のKBS特集で「南北で共に歌える歌」というプログラムのために、南のチームが北に行って各界各層の国民に直接聞く番組があった。その結果、南と北が共に歌える歌は、植民地時代の何曲かと民謡「アリラン」しかなく、強いていえば童謡「私たちの願い」くらいであったという衝撃的な事実が報告されている。「私たちの願い」は北の人は88年までまったく知らなかったが、ある事件をきっかけにメディアが取り上げ、全土に知られた歌である。
分断と体制の違いは、人々の愛唱歌に大きな違いをもたらす。在日同胞の場合は、解放以前からの懐メロや韓国の現代歌謡まで、その立場を超えて共通する愛唱歌は多いだろう。しかし、それは、あくまで私的な場での話しだ。例えば、決して少なくない民団系と総連系の結婚式で、屈託なく共に歌える歌はあるだろうか。
在日の愛唱歌はどうあるべきか。在日の誰もが代を継いで歌う「母さんの歌」のような歌、「在日のアリラン」のような歌を、目的意識的に作っていく運動をしていかなければならないと思っている。
(2009.8.26 民団新聞)
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