掲載日 : [2019-05-22] 照会数 : 7280
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<25>滋賀(鳥居本宿)
[ 旧本陣寺村家(鳥居本) ] [ 鳥居本の町並み ] [ 赤玉神教丸本舗(鳥居本) ] [ 鳥居本駅舎 ]
時の看板 いまも旧街道に
芹川から望んで、頂上部分が雪に覆われた山は、「佐和山ですか?」と通りすがりの人に尋ねると「伊吹山」ということだった。「佐和山はどれですか?」と聞き返すと、彦根駅から展望できる山だと教えてくれた。
石田三成の居城は佐和山にあったが、関ケ原の戦いで破れた後、井伊直政(なおまさ)が城主になった。ところが彦根城築城にともない佐和山城は、慶長11年(1606年)廃城になる。
朝鮮通信使は彦根から佐和山を上り、人馬が通れるように掘削した道「切通し(きりどおし)」を通り、むかし城下町であった鳥居本宿まで辿り着くのである。
資料によると、佐和山を山越えするためのトンネルが、最近は行き交う人がいなくなり遮断されてしまった。
そのため私は近江鉄道の「彦根」駅から、ひと駅先の「鳥居本」駅まで乗って、山越えをした。
「鳥居本」駅は、1931年(昭和6年)に建設。何度か建て替えられたが、赤い腰折れ屋根の建築様式は、今も健在である。
「佐和山城跡MAP」には、本丸跡を主軸とした地図が描かれていた。たとえば駅の西側を流れる小野川沿いに、赤い線で土の砦を表す土塁(どるい)が記されていた。またかって大手門があった辺りから、さらに城のほうに近くなると侍屋敷地区になっていた。今はその面影はない。
駅舎の東、国道8号線の歩道を渡ると、そこは江戸から数えて第63番目にあたる中山道の宿場町・鳥居本になる。
鳥居本宿の本陣を務めてきた寺村家の門は残されていたが、屋敷そのものは建築家・ヴォーリズ設計の洋館になっていた。しかしさらに北の方角に進むと、旧街道に出てその面影を残した通りが続く。当時の看板を掲げる合羽(かっぱ)所「木綿屋」。薬の赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)を製造販売している有川家。その向かいには茅葺き屋根の「棒屋跡」。
そして朝鮮通信使は鳥居本の宿場町から、摺針峠(すりばりとうげ)の望湖堂(茶屋)で休憩。そこから望む琵琶湖周辺の眺めを詩文、書画などに書き記したものがここに所蔵されていた。
しかし、平成3年(1991年)に火災に遭い、それらの総てが焼失されてしまったそうだ。
藤本巧(写真作家)
(2019.05.22 民団新聞)