"揺り戻し" を許すな
「同じスタートラインに立たせて」‐。民団が権益擁護運動を始めたころのスローガンだ。「差別」という名のハンデを背負わされ続けてきた在日韓国人の、心の奥底からの叫びだった。
昨年12月、三重県の一見勝之知事は、情報漏洩への懸念などを理由に、1999年に撤廃した県職員採用時の国籍条項の「復活を再検討する」と発表した。「まさか」と耳を疑うような発言だ。民団のみならず県下自治体や関係機関から反発の声が上がらないはずがない。まさに時代に逆行する発言と言っていい。
民団は直後に、三重本部団長が「多文化共生社会の後退を招きかねない」と再検討の撤回を求める談話を出し、1月には中央本部団長、人権擁護委員長、三重本部団長が連名で「外国籍住民を潜在的なリスクとして扱う印象を社会に与えかねない」として、撤回を強く迫る要望書を知事あてに提出した。
民団が主導し自治体に要望
65年、韓国と日本は国交正常化に伴い「在日韓国人の法的地位協定」を締結した。だが、この協定によって与えられた法的地位と待遇は極めて不十分なものであった。協定永住の許可と強制退去事由の制限以外に、生活面での待遇として明記されたのは次の3点のみ。日本の小・中学校への就学、生活保護の受給、国民健康保険への加入について、「妥当な考慮を払う」(「適用する」ではない)ということに留まった。
民団はこのような法的地位と待遇内容に決して満足していたわけではない。内部的には不満が高まっていたのも事実だ。しかしながら、母国の経済発展のために「我慢するしかない」というのが、当時の在日韓国人のほぼ総意と言ってよかった。
70年代、日本政府は高度経済成長の波に乗り社会保障制度を拡充させ、国民はその恩恵に浴した。一方で、在日韓国人は制度適用の蚊帳の外に置かれていた。制度のほぼすべてに国籍条項が設けられていたためだ。その数は、実に約200項目にも上っていた。
民団は全国の地方本部・支部を通じ、制度適用の窓口となっている自治体の首長や議会に対し粘り強く要望を繰り返し、一つひとつの制度から国籍条項を取り除き、ついには社会保障制度上の国籍条項はほぼ撤廃されるに至った。気が遠くなるような道程を一世、二世の先輩方が切り開いて来たのだ。
70年代から運動全国化
自治体職員(地方公務員)採用時の国籍条項撤廃は、運動の象徴的な意味合いを持っていた。70年代と言えば、社会保障制度と同じように民間企業が国籍によって就職差別を半ば公然と行っていた時期だ。
そのような時に「公務員採用に日本国籍は必要ない」という事実は、就職に際して国籍差別を許さないという点で説得力を持った。
73年、尼崎市や西宮市など阪神間の6市1町が全国で初めて国籍条項を撤廃し、翌年にはついに韓国人公務員が誕生した。当初は主に市民団体が都市部で自治体交渉の中心を担い、言わば〝運動の火付け役〟を果たした。この動きを全国化させたのは市民団体などに比べ圧倒的な組織力を持つ民団であった。
77年には故金敬得弁護士が、最高裁判所に外国籍のままでの採用を認めさせ、それまでの「日本国籍が必要」とされていた司法修習生採用の壁を突き破り、また82年には国公立大学の教授、助教授(現准教授)などへの採用を法的に認めさせることとなった。
民団や市民団体の運動によって、今では都道府県、政令指定都市をはじめ、一部の町村を除くほとんどの自治体が国籍条項を撤廃している。
外国人排除の風潮打破へ
近頃の日本社会には外国人を〝排除〟しようとする雰囲気・風潮が拡大していることを、多くの在日同胞は敏感に感じ取っている。
とは言え、行政の第一線に立つ県知事が打ち出した「多文化共生社会の構築」を真っ向から否定するかのような考えが出てくるとは想像もしなかったことだ。世論や関係機関の反発を招くのは当然だ。5月以降に県民対象のアンケート結果が公表され、知事は議会での議論も踏まえて最終判断をすることになる。知事の「再検討を撤回する」との決断が待たれる。