掲載日 : [2005-01-26] 照会数 : 3895
建国勲章の故布施弁護士に再照明(05.1.26)
朝鮮独立運動擁護に尽力
民族自決主義に共鳴…植民地下の弾圧に抗し
日帝の植民地下で朝鮮独立運動家の擁護に尽力した故布施辰治弁護士(1880〜1953)が、その功績を評価され、韓国の建国勲章を受章した。日本人の受章は史上初めてで、韓日の新たなパートナーシップ時代到来の象徴とも言われている。母校の明治大学でも13日に受章記念シンポジウムを開くなど、一躍注目を集めている。しかしなじみの薄いその名前。布施辰治とは一体どのような人物だったのか。
布施辰治は1880年に現在の宮城県石巻市で生まれた。1899年に上京し、明治法律学校(現・明治大学法学部)で法律を学んだ。
朝鮮人学生らの憂国の情に共感した彼は、卒業時に「朝鮮独立運動に敬意を表す」という論文を書いている。日本が日露戦争の戦勝祝賀ムードに包まれているような時期に発表されたこの論文は、内外に衝撃を与えた。
布施は卒業後、判事となったが10カ月あまりで辞任し、弁護士の道へと進んだ。
1919年2月8日、朝鮮独立の3・1運動のきっかけとなった東京・YMCAでの独立宣言。ビラ散布による出版法違反で60余人が検挙され、留学生9人が裁判にかけられた。布施も2審から無報酬で弁護に参加した。「朝鮮人学生らの独立運動は正当なものだ。民族自決主義が広まっているときに、内乱罪でこれを罰すれば日本は世界の笑いものになる」と主張した。この弁護を契機に朝鮮人が布施に信頼を寄せるようになったと言われている。
1923年には朝鮮に渡り、朝鮮で初めての近代的人権運動である衡平社運動に貢献をし、義烈団の抗日運動事件では義烈団員を弁護人の一人として弁護し、独立運動を後押しした。
同年9月1日に関東大震災が発生した際には、日本人に追われ逃げ惑う朝鮮人を自宅にかくまい、またその後も、自由法曹団の一員として朝鮮人虐殺事件の真相究明と抗議に尽力した。
1926年、後に民団の初代団長となる朴烈と金子文子夫妻の大逆事件の裁判でも弁護人となった。日本の敗戦によって朴烈は約20年振りに解放されている。
布施は朝鮮人の人権擁護のために、これらのほかにも耕地を農民が取り返すために起こした宮三面事件の調査をはじめとして、朝鮮、日本を問わず弁護、講演活動などさまざまな活動に力を注いだ。解放後には、自由・平和・平等を掲げた民主的な憲法の草案「朝鮮建国憲法草案」を発表している。
布施は弁護士資格を2度も剥奪され、2度投獄されている。生活は朝鮮人留学生相手の下宿業がたのみの綱という苦しいもの。それでも朝鮮人の人権擁護のために尽力した布施は、朝鮮人から「我らの弁護士ポシジンチ(布施辰治)」とまで言われるほどに慕われていた人物だった。
戦後は、吹田事件、松川事件などを担当した。
(2005.1.26 民団新聞)