掲載日 : [2005-06-22] 照会数 : 6850
アジア発現代美術「もの派」誕生秘話(05.06.22)
[ 関根伸夫さん 林芳史さん ]
[ 関根伸夫の「位相−大地」(1968年制作) ]
アジア発現代美術「もの派」誕生秘話
水間 敏隆(ギャラリー美術世界チーフキュレーター)
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日韓の国境越えた英知
関根伸夫(先駆者)+林芳史(在日2世)の評論
林芳史。美術関係者としてはあまり聞かないその名に出会ったのは、「もの派」の創始者と目される関根伸夫の評論に取り組んでいた時だった。
私の入手した関根の資料中、主要な5冊の画集に林芳史は評論を掲載していた。読み進むにつれ、関根芸術に対する理解と見識に舌を巻き、異常とも思える掘り下げの深刻さに不思議な感動がジワッと迫って来たのだった。この人物は一体何ものなのか。何故に関根の作品にここまで心酔できるのか。そしてこうも感じた。こんなにも良き理解者がいた関根は本当に幸せだったに違いない…。
李禹煥との出会い
言うまでもなく「もの派」は、20世紀現代美術の中で世界的に認知された数少ないアジア発信の芸術運動だ。
それまで欧米の流行を追うのみだったアジア圏の現代美術が、独自の道を歩み始めた回帰点として、近年特に注目されている。その火付け役が関根伸夫の「位相ー大地」であった。
地球を掘り返して円筒形の凹凸を大地に築いたそれは、圧倒的な存在感で人々を魅了した。その吸引力は、李禹煥をはじめ多くの芸術家を巻き込み、やがて日本独自の美術運動「もの派」となっていく。
その「もの派」の成立に林芳史は重要な鍵を握っていた。「もの派」誕生の前夜は、日韓交流通信の林のインタヴューに詳しいが、50代の若さで急逝した氏からはもう直接聞くことは出来ない。
通じ合う精神文化
林芳史は、在日2世として1943年静岡県に生まれた。早大の韓国文化研究会に在籍していた彼は、そこに招かれた李禹煥と知り合う。
ソウル大を中退して日大哲学科に在籍していた李は、まだ日本語がうまく話せず、林は韓国語が話せなかった。互いに哲学青年だった李と林は7歳の年齢差を越えて理解し合い、毎日のように存在論を論議、共に作品展をする仲になっていった。
そして68年、関根の「位相−大地」を知った李と林は、「我々が考えていたことを本当にやったヤツがいる」と感嘆。韓国の精神文化に精通していた関根は、二人の強力な論客の登場に小躍りする。
こうして彼らと関根と多摩美の仲間達が合流、新宿西口の喫茶店『トップ』は日韓の生え抜きのアーティスト達の結集の場となっていった。ここに美術史に残る「もの派」が誕生する。
東洋哲学の相対性
一般的に「日本発」といわれる「もの派」は、日韓の国境を越えた英知によって開花したというのが真相なのだ。論客を得た「もの派」はその後、東洋哲学の特徴である相対的な発想を随所に盛り込みながら制作活動を展開、一元論的な欧米型現代美術の「もの」の見つめ方に革新的な影響を与えることになる。
日韓の狭間に揺れた林芳史が帰化したのは、期せずして「もの派」誕生と同じ68年だった。以降、林芳史は関根伸夫と行動を共にする。そして、漫画雑誌ガロの創刊メンバーになりかけるほどの筆を持ちながら生来の潔癖性故にそれを赦さず、李禹煥と関根伸夫という巨星を前に自分は黒子に徹し、黙々と「もの派」の精神性の伝達に生涯を捧げていった。
本年10月、林芳史が生涯を掛けて証した関根伸夫の韓国での初個展がソウルで開催される。日韓の英知としての「もの派」は、果たして韓国の地でどのように映るのだろうか。そして今は亡き林芳史は何を思うのだろうか。
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関根伸夫展=7月8日〜27日/銀座・ギャラリー美術世界▽10月6日〜18日/ソウル・芸術の殿堂美術館
(2005.06.22 民団新聞)