掲載日 : [2009-04-29] 照会数 : 6121
在日1世の心のよりどころ「高内里親睦会」 創立から80余年
[ 「親睦会」を語る高さん(右)と洪さん ]
東京・荒川中心に会員1000人
在日本高内里親睦会が創立されてから80年が過ぎた。同胞郷土親睦会としては東京都内で最も古い。荒川区を中心に会員数は約600人。家族を含めれば優に1000人を数えるとされる。1世にはいつまでも変わらない精神的なよりどころであり、2世以降の世代には自らのルーツを確認する機能を果たしている。
済州道との地縁生かし、相互扶助
会員の約9割は荒川区に居住する。高内里は済州道でも比較的小さな村のため、その地縁関係は強固だ。特に1世にこの傾向が強い。
前会長を務めた秦富澤さん(67)は、「例えば、小学校の先輩から右向けといわれたら、黙って従わなければならなかった。日本社会の慣習に慣れてしまったいまは違うけれど、私が40歳の時までは口答えなど一切できなかった」という。
親睦会の歴代会長の名前を見ていくと、民団荒川支部の支団長歴任者が多いのにも驚かされる。現在は名誉会長を務める高昌運さん(85)もその一人だ。「荒川では民団支部の3機関長を高内里で占めるときも珍しくはなかった。そんなときは副にほかの村の人を入れた。逆に、高内里以外で3機関長を構成するときは、副に高内里関係者を入れるのがならわしだった」という。
高内里出身者が荒川区に多く居住するようになったのは解放後、会員がカバンの縫製を始めたからだった。第2次大戦中に軍需産業の一つである兵隊の背のうの製造に携わったことからミシン操作はお手のものだった。「なんとか食える」ようになると、郷里から親や親戚、友だちを頼って入ってきた。
親睦会の前身である在日東京高内里少年共里会が創立されたのは1927年。軍需産業に携わっていたことから解散させられることなく、1949年には「郷里出身者の一層の団結と親睦を図るため」現在の名称となった。
秦さんは当時を懐かしそうに振り返った。「かつては我々の心の故郷は高内里だった。貧乏だった村を助けようとせっせと稼いだお金を送った」。高内里ではいち早く水道や電気の敷設、道路の補修と急ピッチで進んだ。
良き伝統として現在に受け継がれているのは、冠婚葬祭時の相互扶助精神だ。特に葬祭時には現職役員が告別式の受付から司会進行まで一切を分担し、葬儀委員長は会長が務めるのがならわしだ。遺族が例外的に葬儀屋に頼んだときは別として、約9割がたは親睦会で仕切ってきた。葬式のやり方は、「日本式に見習ってちょっと肉付けした感じ」。関係者は「ほかの郷土親睦会ではみられない美徳」と一様に胸を張った。
だが、世代交代が進んだいまは、素朴な郷土愛にも温度差が目立つようになった。20歳を過ぎて荒川にやってきたという1世の洪永 さん(67)は、「郷里に行くときはうきうきするけど、滞在してもせいぜい1週間ぐらい。日本に戻ったらほっとする」と胸の内を語った。
ましてや日本で生まれ育った2世以降の世代には、親睦会は自らのルーツを認識する場でしかない。職業選択の幅が広がってカバンを生業とする若い会員は少なくなり、絶対的な「よりどころ」としての認識は薄くなった。かつて盛んだった運動会も63年を最後に行われていない。成人式や還暦・古希祝いなどの行事も廃れ気味だ。
同郷人としての絆を取り戻そうと、10年前から三河島地区周辺の公園や学校跡地で「高内マダン(バーベキュー大会)」を行っている。これが若い会員家族に人気だ。日本人住民にも開放され、地域の新たな名物行事として定着しつつある。昨年は127人が集まり、肉70㌔のほか、準備した食材を完売した。
「第2の故郷」で2世世代以降のアイデンティティーをいかに支えていくのか。1世世代の手探りが続く。
(2009.4.29 民団新聞)