掲載日 : [2009-09-16] 照会数 : 5269
呉文子さん波乱の半生を語る 歴史資料館「土曜セミナー」
[ 「私の歩み」を語る呉文子さん ]
北送事業、そして朝総連との決別
負の歴史を教訓に、新たな時代へ歩みを
在日韓人歴史資料館(姜徳相館長)は5日、同館にエッセイストの呉文子さんを迎え、「私の歩みをとおして」をテーマに第33回土曜セミナーを開いた。南北分断によって在日社会が二分化され、対立と混乱に翻弄されながら生きてきた家族の項では、50年前の北送事業の様子、朝総連との決別など波乱の人生を語った。
1959年12月、北送第1船が新潟港から北へ向かった。「私は歴史の場面にいた」という呉さん。歓送会前夜祭で「私は北を讃える歌を疑いもせずに感動しながら歌った。回りも感動の嵐だった」
当時、差別で職にも就けず、貧しい生活を余儀なくされていた同胞は、朝総連の「共和国は『地上の楽園』」という宣伝を信じて、大挙帰国した。だが、北での暮らしぶりが明らかになるまで、そう長い時間はかからなかった。
60年8月、日朝協会に入っていた父親は「8・15朝鮮解放15周年慶祝使節団」のメンバーとして北に招かれた。団員のなかに北を礼賛した『38度線の北』の著者、寺尾五郎氏もいた。
父はそれまで、帰国した同胞が幸せな生活を送っていると信じて疑わなかった。だが、ある日、清津へ向かう列車のなかで、寺尾五郎氏が帰国青年たちに取り囲まれ、「あんたの本を読んで帰国したが、書いてあることと全く反対、人生を棒にふった僕たちをどうしてくれる」と詰め寄られる事件に遭遇。
地元岡山から帰国した人たちの面会を求めても叶わず、行動も規制された。「父は寺尾五郎氏が取り囲まれたとき、地上の楽園は嘘だと確認した」。日本に戻った父は、岡山県本部、中央本部の朝総連幹部らに「地上の楽園では決してない、だまして帰すべきではない」と訴え続けた。
「帰国事業を妨害する反動、民族反逆者」の烙印を押された父。そして呉さん夫妻もまた、「反動」の娘、娘婿ということで、朝総連から心身ともに追い込まれていった。「毎日が緊張した時期だった」
呉さんは夫を救うために、離縁を考えたこともある。また「反動の娘といわれるよりは、北に帰ることを決心した」。父親は「反動の娘が帰ったら、殺されるに決まっている。もし、帰るなら私はこの場で割腹自殺をすると、絶叫した」。父は朝総連と決別後、62年に『楽園の夢破れて』を刊行。民族教育に情熱を注いできた夫もまた、学校、組織と決別した。
呉さんは「私たちは分断によって不信、対立、混乱の不毛な時代を生きてきた」とし、「総連も負の歴史があったことを教訓に、次の歴史を歩まなければならない。二度と同じ過ちを繰り返してはいけない」と何度も口にした。
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プロフィール
オ・ムンジャ 岡山市出身。千葉・船橋にあった全寮制の朝鮮師範専門学校で1年間を過ごした。当時、父親は岡山県朝鮮人商工会理事長、在日本朝鮮人商工連合会理事などの役職に就いていた。その後、念願の音大の短期大学に入学した。朝総連との関係を断ち切った33年前、東京・調布市に移った。91年、在日女性のつぶやきを綴った同人誌『鳳仙花』を創刊。20号まで同人代表を務めた。9年前には「異文化を愉しむ会」を立ち上げ、日本人市民たちと様々に活動している。在日女性文学誌『地に舟をこげ』編集委員。
(2009.9.16 民団新聞)