掲載日 : [2003-10-01] 照会数 : 3337
キラリと光る高麗美術館 オープン15周年を迎えて〈上〉(03.10.1)
高麗美術館館長 上田 正昭(京都大学名誉教授)
〞民族の美〟1700点収蔵…日本流出品収集の集大成
「私が望み願いますことは、すべての国の人々が私たちの祖国の歴史、文化を正しく理解することで、真の国際人となる一歩を踏み出して頂くことでございます」
この言葉は、1988年の10月25日にオープンした高麗美術館の『開館記念図録』に掲載されている初代理事長・故鄭詔文さんの高麗美術館創設のこころざしを述べた文章の一節である。
1925年の春から、両親と共に来日した鄭詔文さんの在日の苦しい日々がはじまる。働きながらの就学で京都の楽只小学校の4年生に編入学されたが、卒業のおりには級長であったという。差別のなかにも胸を張って明るく生き抜いてきた鄭詔文さんが高麗青磁や李朝の白磁などに感動して、祖国の歴史と文化に開眼したのは、1950年代のころからであった。
パチンコ店などの事業収益をもとに、加耶・百済・新羅・高句麗の美術工芸品や民具・考古資料などの蒐集にのりだす。鄭詔文・呉連順夫婦の血と汗のにじむ蒐集であった。日本人の手に奪いあるいは買いとられた美術工芸品などの民族の美をとりもどすいとなみであったといってよい。
鄭詔文さんは分断された祖国統一の日をこころから期待して、その蒐集品を展示する美術館の設立を念願していた。何度か鄭詔文さんと一緒に、建設すべき適地を洛北・洛東・洛西・洛中と尋ね歩いたが、結局は鄭詔文さんの自宅を改造して開館することとなった。
1986年から設計にとりかかり、高麗美術館の設立準備会が発足したのは10月であった。そして館長に国立京都博物館の前館長・林屋辰三郎、理事長に鄭詔文、理事には有光教一、司馬遼太郎、岡部伊都子、直木孝次郎、森浩一、高山寛、末本徹夫、鄭喜斗の各氏と私が就任することになって、1998年の8月4日、京都府から財団法人高麗美術館が正式に許可された。
開館にあたって記者の皆さんに説明する機会をもったが、収蔵品約1700点をめぐって、ある記者が「骨董趣味で韓国から買ってきた品か」と質問した。その記者会見に同席していた私の胸には、ぐっと怒りがこみあげてきた。祖国への熱い思いのなかで、どんなにかたくさんの苦労を積み重ね、血と汗のにじむ在日のくらしを前提とする蒐集の品々であった。
それらの蒐集品の展示によって、在日の同胞に自信と誇りをよみがえらせ、多くの日本人に祖国の歴史と文化を正しく理解してほしいとのこころざしにもとづく開館であった。1988年10月25日のオープン祝賀会は、京都の全日空ホテルで開催されたが、荒巻禎一京都府知事、今川正彦京都市長(ともに当時)をはじめとする千余名の方々に参集していただいた。その日その時の鄭詔文さんの満足そうなほほえみを今でもはっきりと覚えている。
歳月は早くも過ぎ去って、本年の10月には開館15周年を迎える。この間には山もあれば谷もあった。しかし多くの皆さんのご支援とご協力によって、キラリと光る高麗美術館の今日にいたった。
(2003.10.1 民団新聞)