掲載日 : [2008-05-28] 照会数 : 4329
<読書>コリアンスポーツ<克日>大島裕史著
戦争 建国60年のスポーツ戦史
1人当たりの国民所得が65ドル程度だった50年代の韓国では、「運動が飯を食わせてくれるのか」という言葉の前に、多くの逸材が競技継続を断念せざるを得なかった。
唯一の例外が国民的人気のサッカーだったが、日本選手団の入国も対戦自体も猛反対していた李承晩大統領は、ワールドカップ予選の初の韓日戦を前に「負けたら玄界灘に身を投げろ」と檄を飛ばした。54年3月のことである。
韓国がライバル視したのは日本だけではなかった。北韓に遅れを取ることも許されなかった。その格好の舞台となったのが、64年の東京五輪である。
しかし、当時の経済力では大規模な選手団派遣も応援団構成も不可能だった。窮地を救ったのが在日韓国人による物心両面の支援である。また、北韓が開幕直前に大会をボイコットしたため、韓国女子バレーボールチームが犠牲的精神を発揮してその穴埋めをした。戦績は惨敗だったものの、体力的に劣りながらも欧米の選手に引けを取らない日本選手の活躍を目の当たりにしたことが、閔寛植・大韓体育会会長率いる韓国スポーツ界に大きな教訓となった。
「日本に追いつき、追い越せ」をスローガンに、今や「宿命の韓日対決」と言われるまでに力をつけた韓国スポーツ界の60年を、丹念に資料を調べて描写している。
(大島裕史著、新潮社1600円+税)
℡03(3266)5611
(2008.5.28 民団新聞)