掲載日 : [2008-07-09] 照会数 : 4490
「小さな村の大きな挑戦」 宮崎県旧南郷村の田原正人前村長に聞く
誇り起こした「百済の里」
【宮崎】7世紀に滅亡した当時の百済王が亡命したと言い伝えられる宮崎県東臼杵郡旧南郷村(現在は西郷村、北郷村と合併して美郷町に改称)。ここは「百済の里」の愛称でも親しまれている。一歩、里の中に入ると、韓国語で表記された看板や案内が目立つ。屋根瓦には韓国の伝統的な文様が彫り込まれており、さながら百済の古都にタイムスリップしたかのようだ。「百済王キムチ」はいまや地元の代表的な名産品だ。このほか特産品にはすべて「百済の里〇〇」のブランドが踊っている。住民の多くは韓国語であいさつし、自己紹介もできるまでになったという。人口3000人足らずの過疎の地を韓国との交流でよみがえらせた田原正人(たばる・まさと)前村長(82)に「小さな村の大きな挑戦」について振り返ってもらった。
流出する人口村人に自信を
田原前村長就任当時の86年、村の人口は3000人余りと最盛期の半数以下だった。若者たちは基幹産業の林業の不振に見切りをつけて、次々に村を離れていった。田原前村長は当時を振り返り「これまでの政治手法ではだめだ、どうしたら村人に自信を取り戻すことができるか」と内部で幾度も議論したという。
田原前村長は「百済王族の歴史伝説」を観光開発することで村おこしにつなげ、村の振興を図れないかと提案した。
観光開発の柱となるのは百済の古都、扶餘の百済王宮跡に建つ客舎「百済の館」の再元と、百済王族の遺品を収蔵した宝物庫「西の正倉院」の建設だった。この「西の正倉院」は奈良の正倉院と寸法、材料がまったく同じ。だが、技術面など、構想段階から次々に難題が立ちはだかった。
財政問題だけをとっても、10年間で村の一般会計当初予算に匹敵する20億円を投資するという提案に村民が反発した。かつてこうした文化的なもので村おこしをした経験はなかった。村人の不安は当然だった。
20億円投資で村の景観一変
3、4日おきあるいは1週間おきに村内の隅々まで回って「百済の里づくり」の基本理念を説き、村民の理解も半ばで「見切り発車」させた。
総丹青仕上げの「百済の館」は韓日友好のシンボルとして構想から4年後に完成。観光客ゼロの村が、内外からおとずれる人出でにぎわうようになり、村人たちの意識も能動的なものに変わり、だんだんと基本構想そのものに理解を示すようになった。
まず、村の景観が一変した。古都のイメージを出そうと、村の隅々まで特色のある瓦ぶきに変わっていき、喫茶店や特養老人ホームまでもが「百済」という名前を使うようになった。村を訪れる観光客はやがて、月1万数千人を数えるまでに。
田原前村長は、「百済の里づくりのいちばんの成果は、村民が、国際交流、国際親善を身をもって体験し、一体となって新しい村づくりに向かう希望と誇りが生まれてきたこと」と話す。その象徴は、村の商工婦人部が開発し、やがて地元の特産品のなかでも「目玉商品」といわれるまでになった「百済王キムチ」の誕生だった。
「百済王キムチ」は本場仕込み。婦人部の有志が韓国のキムチ工場に3回も足を運び、基本から学んだ。延岡市にキャンプを張っていた大邱市三星ライオンズも「これはいける」とお墨付きを与えたほど。年間4000万円近く売り上げたこともある。このほか、地元の名産品にも百済の里のブランドネームが使われている。
よみがえる村韓国語会話も
旧南郷村が派遣した86年の第1回訪韓調査団を皮切りに、人的交流も盛んだ。91年には扶餘邑との間で姉妹都市締結調印式を行った。韓国との交流が進むなかで韓国語を話したいとの村民の希望を受け、90年からは韓国から招いた国際交流員が韓国語講座はもちろん、韓国文化の紹介を行っている。いまでは村民の多くが韓国であいさつや自己紹介ができるまでになった。
旧南郷村の一連の取り組みは「宮崎県地域づくり大賞」にも選ばれている。
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「百済王伝説」とは
西暦660年、百済が滅亡した折、王族一行が百済を逃れて日本に亡命したというもの。伝説を裏付けるように旧南郷村には父禎嘉王が、東南90㌔の木城町には息子福智王が祭神として祀られている。親子の対面が起源とされる年に1回の「師走祭り」は古代百済の風習が残るとされる。王族の遺品と呼ばれる銅鏡24面のほか、馬鈴、馬鐸、須恵器なども伝えられている。
(2008.7.9 民団新聞)