掲載日 : [2009-02-18] 照会数 : 8184
「小説 東医宝鑑」普及へ情熱傾ける中澤俊子さん
[ 『許浚』を手にする中澤さん ]
「青少年の歴史認識共有へ格好の教材」
夫の遺志を継ぎ『許浚』(原題「小説東医宝鑑」、李恩成著)の日訳出版に打ち込んだ中澤俊子さん(67、東京・結書房顧問)が、来年の「東医宝鑑」完成400年を記念して韓・中・日・米の合同シンポジウム開催に執念を燃やしている。日本ではいまのところ名古屋だけが決まっているが、東京など他主要都市での開催にも希望を持っている。いま、なぜホジュンなのかを中澤さんに聞いた。
夫の遺志継ぎ日訳出版
国際フォーラムも計画
中澤さんの夫は米国の対極東史が専門で朝鮮現代史にも造詣の深かった豊島哲上智大学教授。93年、朴菖煕さんとともに「小説東医宝鑑」の日本語訳にたずさわった。
豊島氏は生前、「この書は日韓の真の和解と友好の促進を進めていくにあたり、国民レベルの歴史認識の共有に役立つ。日本全国の人々、特に若い人たちに読ませたい」と日本での出版に意欲を示していた。だが、「韓国の歴史ものはあたらない」といった「偏見」や、「未完」の作品であることから、すべての社から断られた。豊島氏は志半ばで01年1月に急逝した。
夫を亡くし心の張りを失っていた中澤さんは、あらためて原稿を読んで、「なぜ、夫が感動したのかがわかった」と、次のように語った。「中国医学の利用だけでなく、朝鮮の医学を独自に発展させた〞薬草文化〟についての認識が得られ、7年間に及ぶ豊臣秀吉の侵略による惨状と苦難の模様も行間にじみ出ている。蹂躙された側からの史実に目を通す機会はめったにないが、これで得られる日韓(日朝)の歴史認識は植民地時代だけでなく、時代を遡って共有されなくてはならない」。
「高校・大学生の真の教材、教科書に足る」との確信を抱いた中澤さんは、英文科で学んだ母校の早稲田大学に再入学。李成市・宮田節子両教授のもと、東アジア古代史と朝鮮史を学んだ。そうして03年には結書房から夫の遺志だった『許浚』出版を実現させた。結書房は中澤さんが、新美隆弁護士らと共に設立した。
だが、思うように売れず返品が続いた。早くも04年には倒産の危機に見舞われた。中澤さんは思いあぐねた末に、テレビドラマ「許浚」がその年の6月からスカイパーフェクTVで放映されることを知り、新橋のKNTV局を訪ねて協力を要請した。半日がかりで説得した中澤さんの熱意が通じたのか、好条件でCM放映3カ月間の契約を結ぶことができた。
それからは「ぴたり」と本の返却が止まった。火を付けたのは視聴者の中心だった在日同胞だった。「本があるとは知らなかった」と、1回の注文で上下2巻組を5セットまとめ買いしてくれる例も珍しくなかった。初版5000部はまたたくうちになくなり、いまは3刷りを重ねるまでになった。それ以上に日本全国に誕生した「許浚友だち」が、中澤さんの元気の源になっている。
中澤さんは2010年11月、NPO法人フレンドアジアロード(貫井正之理事長、名古屋外国語大講師)と共に名古屋で許浚の編纂した「東医宝鑑」をテーマに、韓・日・中・米の合同シンポを開く計画だ。ドラマと翻訳書を通じて一部とはいえ許浚の存在が知られるようになったいま、第二のステップと位置づけている。
中澤さんは、「日本史を見直すといえば大げさですが、朝鮮史を理解し、許浚を知れば、もっともっと日本史が興味深く、好きになるはず。それは私が見本です。朝鮮史を抜きにした日本の歴史はあり得ないですから」と笑った。
結書房は(℡03・3263・3544)。
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許浚とは
「韓医学」の最高峰といわれる臨床医学の百科全書「東医宝鑑」を朝鮮朝当時の1610年に編纂した実在の名医。「東医宝鑑」は25巻25冊に及び、日本の漢方医学の発展に貢献したばかりか、「元祖」中国にも大きな影響を与えた。日本では江戸時代の8代将軍吉宗が医療改革に役立てたとされる。最近では100年前、英訳された「東医宝鑑」が外国誌にも掲載されていたことが確認されている。許浚を小説化した作者の李恩成氏は1945年に帰国した在日2世。
(2009.2.18 民団新聞)