掲載日 : [2009-02-18] 照会数 : 8418
フラッシュ同胞企業人<33>追随を許さぬ産業刃物
[ 1941年鳥取県西伯郡大山町(旧中山町)生まれ。大山町立中山中学卒。1980年にビック・ツール設立。1男1女、孫4人。 ]
ドリル研磨機のメーカー
ビック・ツールの朴高一社長
機械工具の中でも、ドリルやカッターの種類は数えきれないほどある。その工具を研磨する機械が主たる商品だ。「これまでにない商品に力点をおき、たえず商品開発を追求し続ける。そうしなければ、生き残っていくのは難しい」
年間15品目の特許申請を目標に、商品開発の陣頭指揮に立つ。「失敗作の方がずっと多い」。商品の数もぼう大で、刃物の精密機械では追随を許さない。
中国地方のニュービジネス協議会特別賞をはじめ、発明協会主催の鳥取県知事賞、グッドデザイン賞など種々のアイデア賞を受賞した。経済産業省支援の産学官共同研究開発事業にも参画している。
工場は、▽ドリル研磨機▽ボディリペア(自動車整備用機器)▽タップ再研の3部門に分かれる。07年度売上額は約10億円。東京の営業所を含め、社員は47人。今では官公庁にも納品している。
整備工具の中でも「スポットカッター」が優れもので、国内外での評価は高い。車のボディを留める大量のスポットをはずすのは大変な作業で、すぐにカッターを傷めてしまう。それを鉛筆削りのように簡単に研ぐことができる機械を開発し、スポットカッターの刃先をよみがえらせた。「タップ再研も当社が開発した機械。形状をきざむ金工具は使い捨てが多かったが、リサイクルを可能にした」
契機は単車作り
1941年、鳥取県西伯郡大山町(旧中山町)生まれ。小さい頃から、近くの山で燃料用の木を切っては運ぶ手伝いをさせられた。もっと楽に運ぼうと、「単車を作るのが夢」だった。
中学卒業後、和歌山県で車体を作る日産工場に就職。カネを貯めて単車を作るつもりでいた。ところが、ホンダが単車「カブ」を発売。「大ヒットしたのにショックを受けた」
気を取り直し、18歳で大阪・堺市にボディを作る新井自動車会社を立ち上げた。日産自動車の下請けとして順調に業績を伸ばしたが、20代初めに8000万円の保証をしたがために会社を売却するはめに。
整理後、米子に戻ったのが30代前半。弟3人と共同で会社を起こした。焼肉店やバッティングセンターなど西日本一帯に多店舗を展開したが、「ものづくりの夢が忘れられず、すべてを弟たちに譲った」。
大衆の共感求め
80年、車体修理工具メーカーとしてビック・ツールを設立。「顧客の目線に立ってものをつくる」ことを基本にした。「ものづくりの原点は、人・物・ヒント・商品・書物などとの出会い。情報の先取りが大事」と強調する。ヒットするのはなぜかを考えた末、「商品の利便性があり、大衆に認められる商品でなければ伸びない」との結論に達した。
7年前からピアノを習い始めた。「ヒットしている歌には、心に響くものがある。商品も同じで、共感を得てこそ売れる。音階がひとつ違うだけで全く別の曲になる。ものづくりに共通する」と考えたからだ。
長男の義一さん(30)が海外のチャンネルを増やそうと懸命に走り回る。「早くバトンタッチを、と考えている」
◆(株)ビック・ツール=鳥取県西伯郡日吉津(ひえづ)村日吉津38(℡0859・27・1231)
(2009.2.18 民団新聞)