掲載日 : [2009-04-01] 照会数 : 5862
研究成果を出版『植民地朝鮮と児童文化』
[ 大竹聖美さん ]
忘れたい歴史見つめ直し
近代韓日の児童文化・文学関係史に関する研究成果をまとめた、大竹聖美著『植民地朝鮮と児童文化』がこのほど、社会評論社から刊行された。1895年から1945年までの50年間を対象にした大竹さん(東京純心女子大学こども文化学科准教授)の児童文化・文学領域での本格的な研究は、これまで両国でもなされてこなかっただけに、関心が高まっている。
安易な断罪 避けて
時代の独特さ浮き彫りに
『植民地朝鮮と児童文化』は、大竹聖美さんが2002年、韓国の延世大学から博士学位(教育学)を授与された韓国語論文をもとに、日本語で整理しなおしたもの。
1998年から6年間におよんだ留学研究は、朝鮮独自の児童文化・文学の始まりとされる、六堂・崔南善の「京釜鉄道歌」と雑誌「少年」、方定煥の口演童話運動に影響を与えた、近代日本の児童文化・文学の創始者といわれる巌谷小波の口演童話、1920年代から始まった童話集ブーム、プロレタリア児童文学、金素雲の韓日児童文化交流事業、植民地時代の総督府の「児童文庫」など広範にわたる。
また、一次資料の発掘作業では、韓国の国立中央図書館に残された朝鮮総督府付属図書館の蔵書まで調べている。
−−なぜ1895年から50年間を研究対象にしたのですか
大竹 白百合女子大学大学院の修士課程時代、李相琴先生(元梨花女子大学教授)の「半分のふるさと」を読んで感銘を受け、先生に会いに韓国に行きました。先生は、1920年代のオリニ運動の指導者、方定煥の研究者でした。日本でもこの時期、子どものための児童文学運動の「赤い鳥の運動」誕生や、いろいろな童話雑誌が刊行され、自分でも面白く勉強していました。
最初は方定煥は韓国では尊敬されているので、その人物について知りたいと思いましたが、言葉のハンディなどがあり、逆に日本人が朝鮮にわたって何をやったのかを調べるようになりました。日本人が朝鮮昔話を書いたり、植民地教育をしたり、誰も教えてくれなかったことが見えてきた。
この時代は両者が触れたくない部分かもしれませんが、それも直視しないと、どういう関係でここまできたのか分からないと思ったからです。
丹念に探して一次資料発掘
−−一次資料の発掘の苦労は
大竹 植民地時代の朝鮮総督府の図書館にあったものが、韓国国立中央図書館に入っていました。最初は、かつて図書館にあった目録カードから調べました。日本の本があるということが驚きでした。朝鮮で発行された日本語書籍は、全く知られていなかった。
植民地時代の本は貴重本のうえに、ボロボロだから出してくれない。だけど運良く、韓国では電子図書館に移行する時期でした。それまでは閲覧不可だった貴重本もパソコン上で閲覧可能となったのですが、韓国語体系の中に入って検索しなくてはならない苦労がありました。
日本語の書籍名も韓国語読みにしてハングル入力しなくてはならなかったのです。これらのなかには、日韓両国でこれまで知られていなかった図版もあり、びっくりさせられました。
−−日本、韓国、植民地朝鮮の相互関係については
授業より怖い遊び中の文化
大竹 日本と韓国の児童文化・文学の歴史の間に、植民地時代の独特な文化があったのは事実です。評価よりも事実をふまえたいと思いました。
もしかしたら忘れたい、消してしまいたい歴史なのかもしれませんが、雲散霧消してしまうかもしれない断片を、体系的に集めようとしただけです。私が嫌なのは、一つの断片だけを拾って拡大解釈したり、誇張したり、こういうふうに英雄だった、あるいは悪かったと称賛したり簡単に断罪してしまうことです。そういうとらえ方は危険です。
事実を多角的に見つめなおさなくてはならない。朝鮮の子どもたちも、日本の児童雑誌の巧みな絵に惹かれたとか、子どもが無意識のうちに楽しんで遊んでいるのが実は日本の歌だったとか。金素雲さんは教科書教育より、もっと怖いのは休み時間の文化だといっています。
教科書は強制的にやらされるけど、休み時間に日本の漫画とかを読んで、子どもたちは引き込まれていくからです。大人として、日本人として、心が痛みます。しかし、そうした恐ろしさが植民地児童文化だったと思います。事実を掘り起こす地味な作業でしたが、誠実に拾ってきました。
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「植民地朝鮮と児童文化」は定価3400円(税別)。社会評論社(℡03・3814・3861)。
(2009.4.1 民団新聞)