掲載日 : [2009-04-01] 照会数 : 4747
<北韓>背信・恫喝の核・ミサイル開発
「瀬戸際外交」反復の系譜
北韓は今年に入っても、南北対話再開に応じないばかりか対南恫喝と南北間合意の一方的無視など強硬措置により、韓半島の緊張を煽ってきた。そうした中で、国際社会の中止要求にもかかわらず「人工衛星」打ち上げの名目で弾道ミサイルの発射準備を進め、「迎撃は戦争を意味する」と強調、発射問題が国連安保理事会で取り上げられれば「6者会談」からの離脱や核開発の再開も辞さないと脅している。このように緊張を高めては韓国および米国などからの譲歩を引き出す「瀬戸際外交」を、北韓は、70年代の南北当局対話開始以来繰り返してきた。その系譜を見る。
「非核化宣言」破る
「先軍政治」で大量餓死放置
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70年代
南北平和・統一実現に向けた南北当局間初の合意である「7・4共同声明」(72年)以後も、何度も北側によって韓半島の平和は脅かされ、南北間の交流・協力の拡大と相互信頼関係の増進による平和の制度化は先送りされてきた。
「7・4」は「自主・平和・民族大同団結」を南北統一の3原則としている。この原則に基づき①お互いの誹謗中傷、武力挑発の禁止②諸分野での南北交流の実施③南北赤十字会談の実施④南北ホットラインの設置などについても合意した。同声明に基づき統一問題を話し合うための南北調節委員会が構成された。
「7・4」の裏で南侵トンネル
北側は、このように南北対話に応じる一方で、非武装地帯の地下に南侵用のトンネルを掘り進めていた。まず74年11月に板門店に近い高浪浦北東で発見され、翌75年3月にDMZに近い江原道の鉄原北方でも見つかった。さらに78年10月には板門店区域南方の坡州市郡内面でも発見された。3本目のトンネルはソウルから44㌔しか離れていなかった。
ばかりか、74年8月、包摂した在日韓国人青年を暗殺者として韓国に送り込み、光復節で演説中の朴正煕大統領の暗殺を狙った「文世光事件」を引き起こした。
さらに75年4月には、中国を訪問した金日成主席が北京での歓迎宴で「南朝鮮で革命が起きれば、われわれは同一の民族としてただ腕をこまぬいて傍観するつもりはない」と言明。「もし敵が戦争を仕掛けるならば、われわれは断固として戦争で応える。この戦争においてわれわれは非武装地帯のみを失い、国家の再統一を得るだろう」と強調、「武力統一」をも辞さないことを明らかにし、中国およびソ連から強く自制を求められた。
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80年代
80年代に入って北韓は再び南北対話ジェスチャーを示す一方で韓国大統領暗殺計画を進めていた。
83年10月9日、全斗煥大統領一行が公式訪問中のビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン(現ヤンゴン)の国立墓地アウンサン廟で北韓武装工作員が仕掛けた爆弾が爆発し、全大統領を待っていた閣僚ら公式随行員17人が死亡した。全大統領は、たまたま到着が数分遅れたため助かった。
北韓は、事件の前日に中国を通じて米国に「朝鮮の緊張緩和と平和解決の前提対策を協議するため」北韓・米国・韓国による「3者会談」の開催を呼びかけていた。
ラングーン事件に大韓機爆破も
国際的「テロ国家」視と孤立から脱出するために北韓は84年9月、突然ソウルでの集中豪雨による被災者への救援物資提供を表明。韓国側が受け入れたのをきっかけに赤十字、経済、国会の3つのチャンネルで対話が開始された。85年9月には南北双方の離散家族故郷訪問団と芸術公演団の平壌・ソウル相互訪問が実現した。
こうした南北対話も、86年に入ると北韓側が、例年実施されている韓米合同軍事演習を口実に中断させた。
北韓は、早くから86年秋のソウル・アジア大会と88年秋のソウル五輪に反対し妨害工作を展開していた。アジア大会が大成功を収め、五輪開催が近づくにつれ「ソウル参加は米軍の南朝鮮占領に賛成することだ」(金日成主席)などと強調する一方で、突飛な「五輪併立開催論」を主張することで、さらに孤立した。
そうした中で、87年11月29日、金正日書記(当時)の指示を受け、日本人に扮した北韓工作員の金賢姫と金勝一が乗客・乗員115人を乗せたバグダッド発ソウル行きの大韓航空機に時限爆弾を仕掛け、ミャンマー沖で爆破した。北韓は、ラングーン事件の時と同様、大韓航空機爆破事件を韓国当局の「自作自演」だと主張し、未だに謝罪していない。
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90年代
東西冷戦の終結と東欧共産主義政権の相次ぐ瓦解の中で、経済破綻とともに体制崩壊の危機に直面した北韓は、90年に入り分断後初の南北総理会談の席に着いた。
91年には南北同時国連加盟(9月)に応じ、さらに「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書(南北基本合意書)」(12月)に署名し、「韓半島非核化共同宣言」(12月)も仮調印した。この二つの合意は、92年1月の南北総理会談時に正式調印され、同年2月に発効した。
「南北基本合意書」は、双方が相手側の体制を尊重し、内部問題に干渉しないことを約束することで、平和的に共存する道を選択、本格的に和解の道を歩み、政治、経済、軍事などの諸分野で協力関係を推進する枠組みを定めている。
「非核化共同宣言」は①核兵器の実験・製造・生産・受け入れ・保有・貯蔵・配備・使用を行わないこと②核再処理施設とウラン濃縮施設を保有しないこと③その実効のために南北核統制共同委員会を設置して相互査察を実施することをうたっている。
「基本合意」反古 核疑惑が浮上
だが、その後、北韓の核開発疑惑が浮上。93年3月、国際原子力機関(IAEA)の特別査察決議に反発して核不拡散条約(NPT)脱退を宣言。米国との高官協議で脱退を一時保留することにしたが、査察を拒否した。
翌94年3月、板門店での南北対話中、北側首席代表が「ソウルはここから遠くない。もし戦争になればソウルは火の海になる。あなた方は生き残れないだろう」と宣言。6月にはIAEAからの即時脱退を発表、「国連安全保障理事会が制裁を決めたら、宣戦布告とみなす。戦争に情け容赦はない」と恫喝した。
その直後のカーター元米大統領の平壌訪問・金日成主席との会談で危機は回避され、同年10月に北韓の核開発を放棄させる「米朝枠組み合意」に調印した。
この合意に基づき95年3月に韓半島エネルギー開発機構が設置され、97年8月から軽水炉建設作業に着手。97年12月からは韓米が提案していた韓半島の平和体制問題に関する南・北・米・中4者会談も開始された。
にもかかわらず北韓は密かに核開発を推進した。金日成主席死亡後の95年以来、金正日国防委員長が「先軍政治」と称して軍事最優先政策を強行、300万同胞の餓死を放置した。98年8月には長距離弾道ミサイル「テポドン」の発射を関係国に事前連絡なく日本の上空越しに発射し、緊張を高めた。99年6月には西海で北韓警備艇が北方限界線(NLL)を越えて韓国側に侵入し銃撃戦を引き起こした。
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「6・15」以後
信頼構築後回しに…対南圧迫続け緊張を醸成
ウラン濃縮計画 「米朝合意」消失
西海銃撃戦から1年後の2000年6月15日、分断後初の南北首脳会談の成果をまとめた「6・15南北共同宣言」が発表された。「共存共栄しながら南北統一の道に進む」ことをうたったこの共同宣言が誠実に履行され、相互信頼に立脚した「和解・協力と平和共存」の南北新時代の到来が期待された。
だが、韓日共催ワールドカップ閉幕を翌日に控えた02年6月、北韓の警備艇が西海のNLLを越えて南下、韓国の高速艇を先制攻撃して沈めた。北韓は、さらに同年10月に米国側から証拠を突きつけられ核兵器用ウラン濃縮計画を認めた。12月には核施設再稼働を宣言、IAEA査察官を追放し、翌03年1月にNPT脱退を表明するなど瀬戸際外交を続け、「米朝枠組み合意」は消失した。 北韓の核問題の平和的解決を目指しての6者会談(南・北・米・中・日・露)が03年8月から開始されたが、進展せず、05年2月には北韓が核兵器保有を宣言した。
さらに核弾頭の搭載が可能な弾道ミサイルの開発に拍車をかけ、06年7月には「テポドン2」などミサイル7発を東海(日本海)に向け連射。同年10月には核実験を強行している。このため国連安保理は「弾道ミサイル開発に関するすべての活動停止」を求める非難決議と「大量破壊兵器と弾道ミサイル計画の完全なる放棄」を求める制裁決議を採択した。
韓国の大統領選挙を目前にした07年10月に第2回南北首脳会談が開かれ、「南北関係発展と平和繁栄のための宣言」(10・4首脳宣言)が発表された。同宣言には韓半島の緊張緩和・平和定着と南北相互信頼構築に不可欠な北韓の核開発問題に関する言及がなかった。
2カ月後の大統領選挙では、同宣言の全面履行を公約した与党候補が、過去10年の過度の対北融和政策の見直しによる対北「非核・開放・3000」政策を表明した李明博候補に歴史的な大差で敗れた。
北韓は、李明博政府が発足した08年2月以後、今日に至るまで、1年以上も南北当局公式対話を拒否、対決姿勢をエスカレートさせ、昨年末には南北和解・協力の象徴とされてきた開城工業団地に通じる陸路の南北往来も一時「遮断」した。
エスカレートする強硬措置
今年に入って、李明博政府に対する中傷と恫喝をさらに強め、「対南全面対決態勢への突入」(1月17日)、「南北間の政治・軍事的対決状態の解消と関連したすべての合意の無効化」・「南北基本合意書とその付属合意書にある西海海上軍事境界線関連の諸条項の破棄」(1月30日)などを一方的に発表。
北韓側に事前通知と参観要請までした韓米合同軍事演習(3月9日〜20日)についても「侵略演習」だと決めつけ(3月5日)、開城工団の韓国側人員を一時「抑留」するなど、一段と緊張を煽った。
こうした中で、北韓は長距離弾道ミサイルの発射(4月4日から8日の間)を予告。韓日米をはじめとする国際社会の中止要求を無視し、「迎撃は戦争を意味する。報復攻撃戦を開始する」(3月9日)と威嚇。発射の秒読みに伴い、発射問題が国連安保理で協議されれば「敵対行為」と見なし、「6者会談」からの離脱や核開発の推進も辞さない(3月26日、外務省報道官)、とエスカレートさせている。
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「民族共助」にも逆行
急要す住民生存確保
「発射」中止し 南北協力・経済再建へ
「4大合意」履行 協議拒み続ける
北韓は、「6・15」と「10・4」の履行に応じていないとして李明博政府との対話拒否にとどまらずその打倒まで主張している。だが、李明博大統領は、この間、「南北は互いに相手を認め、尊重し、平和的に共存、共栄の道を歩むことで合意している。これまで南北間で交わされたすべての合意事項(「7・4」、南北基本合意書、非核化共同宣言、「6・15」、「10・4」)を尊重する」と明言。機会をとらえては、具体的に協議するために南北対話の再開を促してきた。
韓半島の平和・統一問題は南北が主体となり主導的に解決していくというのが「7・4」および「6・15」の民族自主解決原則にほかならない。この原則にのっとり、北韓側が南北基本合意書と非核化共同宣言の履行に誠実に応じ、相互信頼関係の構築に力を注いできたならば、非核化・平和の制度化と共生・共存の経済協力を通じた南北経済共同体の実現にむけ南北関係は大きく進展しただろう。そして、そもそも90年代後半における悲惨な北韓同胞300万の餓死はなかった。
北韓の経済力は、人口が80万人にも満たない島根県よりも小さい。世界の最貧国で、人口約2300万の北韓が約120万もの軍隊を抱え、過重な軍事費のもとに核およびミサイル開発を推進したらどうなるかは明白だった。
しかも,非核化共同宣言調印の段階で米国の北韓に対する核の脅威は排除された。だが金正日国防委員長は、「強盛大国」推進の手段として「先軍政治」を強行、南北基本合意書および非核化共同宣言を無視し、核兵器およびミサイル開発に莫大な資金・資源を投入した。
「敵どもは、人工衛星の打ち上げだけでも数億㌦は優にかかっただろうと言っているが、それは事実だ。私は人民がろくに食べることができず、豊かに暮らせないことを知りつつも国と民族の尊厳と運命を守り、明日の富強な祖国のために資金をその部門に回すことを許可した」(金国防委員長。99年4月22日付け労働新聞)。
常態化した飢餓 常軌逸した言動
今日なお数百万同胞が飢餓に苦しみ餓死が絶えぬことを十分に知りながら、核およびミサイル開発を継続強化している。国連理事会の北韓人権状況特別報告者は、最近の弾道ミサイル発射計画について「核であれ、ミサイルであれ、衛星であれ、国民が飢えている一方で、政府が軍にお金を使うことは常軌を逸している」(3月16日)と強く批判している。
北韓当局は、「6・15」以後、今も「わが民族同士」「民族(南北)共助」を強調している。真に韓半島の平和・安全と同胞の生活向上を願い、「わが民族同士」をなによりも大事にするのであれば、基本合意書と非核化共同宣言の基本精神を、今一度思い起こし、核開発とミサイル発射を中止して、南北当局対話および6者会談などの平和の枠組みづくりに速やかに応じるべきだ。何よりも急を要する同胞の生存確保のための経済の再建に不可欠だ。
南北の交流・協力推進の本来の意味は、南北間の軍事的信頼醸成と平和体制の構築を目指すと同時に、共存・共栄を通じて双方の民主的発展・統一のための基盤の構築にある。
李大統領は、かねてから「南と北の同胞が普遍的な価値に立脚し、最低限の人権と人間らしい人生を享受しながら生きていくことが私たちの目指す目標だ。同じ民族として北韓が苦しければ助けなければならず、助けるべきだ」と力説している。
(2009.4.1 民団新聞)