掲載日 : [2003-03-19] 照会数 : 3424
盧武鉉第16代大統領の歩み(03.03.19)
[ 第16代大統領就任式に向かう盧武鉉大統領と夫人 ]
政治的難関超えて「参与政府」を出帆
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人権派弁護士として
労働者の人権を擁護
民主主義運動の先頭に
◇幼年時代
盧武鉉氏は1946年8月6日(旧暦)、慶尚南道金海市進永邑から10里ほど離れた小さな村にある貧しい農家で、盧判石氏と李順礼氏を両親に、3男2女の3男として生まれた。中学校を卒業するまでこの村で暮らし、貧乏の中でも笑顔を絶やさず「正直、誠実、自立心」を学び、育った。
小学校時代の逸話は、彼の強靭な性格を物語っている。校内の書道大会で自分が一等に違いないと思ったが、両親の七光りで別の者が賞を得た。これを不当だと考えた彼は、抗議し、授賞式の日に、彼が受けた2等賞を返納した。幼少期に見せた彼の公正性は、成人した今も彼の人間性の重要な部分を占めている。
進永中学校を卒業した後、奨学金を受けるために釜山商業高校に進学した。66年卒業後、小さな会社に就職をしたが待遇に失望し、弁護士になるため司法試験に挑戦する事を決心する。68年、最前方部隊中の1つである乙支部隊で軍役につき、71年5月上兵除隊。73年1月、同郷の権良淑と結婚した。
◇司法試験合格
幼い頃から、司法試験受験の夢を持っていた。司法試験合格は富と名誉、社会的影響力を保障する韓国でも最高の成功を意味する。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、故郷に戻り、受験資格を得るための試験準備を開始した。66年10月に資格試験に合格し、軍の服務を終えた後も勉強し続け、75年、司法試験に合格した。司法研修院で2年間の研修を終えた後、77年、大田地方裁判所判事になり、8カ月間の判事生活を送った。維新体制のもとでは、判事が独立的司法権限を維持することができないという事実を知って判事を退職し、78年に弁護士を開業した。
◇釜林事件と人権派弁護士
80年、光州民主化抗争を残忍な弾圧で終らせ、誕生した全斗煥政権は、大学生たちの民主化要求と、反政府分子を抹殺するための体系的なプログラムを作成した。
例えば、ソウル地域のキャンパスでは、大学生らが「反政府行為」というでっちあげの容疑で逮捕された。釜山の大学生に対する捏造された事件の1つが、「釜林事件」であった。
学生たちは、左翼理論を勉強したという疑いを受けた。盧氏は偶然にも、思想理念問題で政府と問題を起こした別の弁護士の代理として、この事件の弁論を受け持つことになった。
政府は、盧氏は思想的に問題がないものと判断した。しかしこの事件は、彼を目覚めさせ、彼の人生を変える契機となった。
弁論を行いながら、行方不明になった学生の母の姿、拷問を受けた学生の姿などを目の当たりにした彼は、この直後の80年から88年まで、悪名高い「第5共和国」の政権下で、民主主義、労動者の人権を弁護する人権派弁護士になった。
◇在野運動と「6月抗争」
84年盧氏は「公害問題研究所」の理事となり、85年には宋基寅神父を中心に「釜山民主市民協議会」を創設した。ほぼ同時に「労働法律相談所」を開始し、86年まで弁護士の業務をほぼ中止せざるを得ないほど運動に専念し、大統領直接選挙制実現ための憲法改正を主張した6月抗争の主役の一人となった。
政府は改憲に反対する動きを強力に支持し、6月抗争は最高潮に達した。
その年9月、盧氏は街頭デモに参加し、警察の催涙弾を受け死亡した大宇造船の李錫圭氏の葬儀に係わったとして逮捕された。
盧氏と民主主義運動で名を知られた数人の人々は、労働者らを支持するため招請を受け、盧氏は労組側を代表し企業側と賃金、保障問題などについて話し合った。このような活動に従事した彼は、第三者介入と葬儀妨害容疑で拘束されたが、その後23日ぶりに釈放された。
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政治への参画
地域主義政治に挑戦
根深い感情の打破に献身
◇スター国会議員
88年盧氏は、金泳三氏が率いる野党・統一民主党の公認を受け釜山東区から出馬し、強力な与党候補をおさえて13代国会議員に当選した。以後、国会の対政府質問、労働委員会等を通じ活発な活動を展開した。労働委員会では労働委員会3銃士と呼ばれた。
一方、「5共不正調査特委」の聴聞会で、当時駆け出しの国会議員であった盧氏は核心を突く質問と鋭い追及で、一躍聴聞会のスターとなった。国会議員の誰も、あえて鄭周永現代グループ会長と全斗煥政権当時、安全企画部長であった張世東氏に対抗できなかった。しかし、盧氏は独自の方法と捜査でこの2人の大物に対峙した。
当時を知る韓国人の多くは、今も彼をスター国会議員と記憶している。
◇3党合党反対と野圏統合
90年1月、盧氏は与党と2つの野党間の政治的3党合党に反対しており、この合党を通じ長い間韓国の反独裁、民主主義運動の象徴であった金泳三氏と、独裁的維新憲法の象徴であった金鍾泌氏は、将軍出身で第5共和国全斗換氏の後継である盧泰愚氏が率いる与党と連立政府のパートナーとなった。
与党は国会内の多数席を確保するため合党が必要であった。盧氏は、新しく民主的な政権を切実に要求する世論を裏切る背信行為だとし合党に反対した。
盧氏は、当時、金正吉議員と他の脱党議員らとともに、ミニ民主党創党を構想し、袂を分かつこととなった。金大中総裁の新民党との野党統合運動を展開し、2党は91年9月統合民主党を出帆させ、彼は初のスポークスマンに就任した。
◇92年釜山での歴史的挑戦
金大中氏によって新たに作られた統合民主党の看板として、盧氏は92年3月釜山東区国会議員に再び挑戦する。
盧氏は嶺、湖南間の深い対立感情を乗り越えて勝利することを望み、湖南地域から最も多くの支持を集めている党の看板として嶺南地域の中心地で出馬したのだった。不幸にも彼は地域感情を克服することができず、今度は以前に自分が競い、勝利した民自党の同じ候補に敗北した。
盧氏は92年末、金大中大統領候補の選挙遊説団長として全国を回り、翌年3月統合民主党の最年少の最高委員となった。
◇地方自治実務研究所設立
93年、盧氏は韓国の民主主義発展のための一つの手段として、地方自治自治実務研究所を設立する。
この研究所は韓国に地方自治制が導入されて以来、地方政治のための人材を輩出した。現在この研究所は自治経営研究院と名前を変えている。
◇釜山市長選挙に出馬
盧氏は95年6月27日行われた第1回統一地方選挙で釜山市長候補として出馬したが、民自党の文正秀候補に敗れた。
当時、彼は京畿道知事候補として世論調査で優位に立っていた。
またソウル市長選挙の最有力候補から、ランニングメイト(副市長候補)としての誘いを受けていた。
しかし彼は、嶺、湖南で国を分けている地域主義政治を打破することを望んでいたため、釜山市長出馬を選んだ。連続して2度も湖南に権力基盤を持つ統合民主党候補として嶺南の釜山で出馬したのだ。
それは2000年に再び、同じ試みをした盧氏自身を除き、いかなる政治家も試みた事のない政治的冒険であった。韓国の政治において、根深い地域主義を根絶することは、その後も彼の政治人生において主要な目標のうちの一つとなった。
◇新政治国民会議入党
95年に新政治国民会議が創党されると盧氏は民主党に残留した。96年15代総選挙では民主党の看板としてソウル鍾路区に挑戦したが失敗した。
敗れた後、彼は国民統合推進会議に参加した。97年には国民統合推進会議の指導部が大統領選挙を目前に分裂した。11月に盧氏は大統領選挙で金大中氏支持を固めるため、新政治国民会議に入党することを決めた。
そして大統領選挙遊説の一環として盧氏は金大中候補応援演説のためテレビ番組に出演した。
◇鍾路補欠選挙当選
98年7月ソウル鍾路地域補欠選挙が行われた。盧氏は国民会議候補として出馬、当選した。今度は、教育委員会で活動した。この期間、盧氏は多くの労使紛争の仲裁者として貴重な経験をつんだ。
一例をあげると、98年8月の現代重工業労組による大規模労組ストを解決するため重要な役割を果たした。99年にはまたサムソン自動車をルノーに売却するにあたって、合意形成のため国会議員、労組、市民団体らを説得するのに主要な役割を果たした。
◇総選挙とノサモの胎動
総選挙の前哨戦として、ハンナラ党の李会昌氏は99年初め嶺南地域で集会を開き始めた。盧氏はこれを無視し、ソウル鍾路区で出馬することで、引き続き国会議員に当選した。
しかし、彼はハンナラ党の地域主義政治に挑戦するため、民主党候補として釜山に戻った。彼は釜山選挙で3位と敗れたが、原則と所信を維持したことで、全国の多くの人々の共感を得た。
00年4月、釜山選挙での盧氏の敗北は思わぬ副産物を生んだ。
彼の敗北の契機に、全国の彼の支持者らは、韓国で初の政治ファンクラブの「ノサモ(盧武鉉を愛する者達)」を結成した。彼の支持者は地域主義に対抗する闘争で見せた彼の勇気と献身に鼓舞された。
◇海洋水産部長官に
00年8月に盧氏は海洋水産部長官に任命された。彼は政策形成と政府業務の幅広い経験を積んだ。
任期中、盧氏は民主的な指導スタイルと新鮮で躍動感あふれる姿勢で評判を得た。
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大統領候補に
僅差ながら勝利得る
有権者数万が選挙資金寄付
02年大統領選挙のため、新千年民主党は韓国で初めて国民参加の党内候補者選挙制度を導入した。新千年民主党の党内選挙は、02年3月9日済州島で始まった。
初めは7人が出馬し、盧氏は決して有力候補ではなかった。
当時120人の新千年民主党国会議員中、ただ一人が公に盧氏を支持していた。だが4月27日ソウルでの党内選最終日に盧氏は新千年民主党の大統領選挙候補に公式に確定した。投票を希望する200万人の党員、非党員申請者の中から7万人が選ばれ、党内選で投票を行った。
大統領候補として盧氏の指名を予想したものはほとんどいなかった。彼の勝利は候補自身と党の勝利であるだけでなく、党内選制度に対する勝利でもあった。
指名後の世論調査で彼は、リードしていた野党・李会昌候補に大きく差をつける約65%の支持を得た。
◇大統領当選者として立ち上がる
金大中大統領の息子、親戚、そして金大統領が任命した公職者らが係わった一連の腐敗スキャンダルは、党内選後、数カ月の間、国民らを怒らせた。盧氏の人気は最低点に落ちた。
彼の大統領候補としての地位が急速に崩れていくように思われた。一部の新千年民主党議員らは脱党し、李会昌氏や鄭夢準氏と彼の支持者らによって大統領選挙のため構成された国民統合21に党籍を移した。他の新千年民主党脱党者は、盧氏が大統領候補の座を人気が急騰していた鄭夢準氏に譲るよう圧力をかけるため、臨時委員会を構成した。世論調査での鄭氏の人気上昇には、02W杯世界サッカー大会を成功裡に開催したワールドカップ組織委員会の共同委員長を務めたなど多くの要因があった。
再び盧氏は難しい政治的決定を迫られた。自らにもっとも近い支持者らの言うように自身の新千年民主党大統領候補の座に固執するべきか、候補単一化のために鄭夢準氏と競争しなければならないかということであった。世論調査の結果から見ると、この競争での勝利の可能性は希薄であった。
苦悶の末、盧氏は李会昌氏に対抗できる単一候補を望む有権者らの要求に答えることに決めた。盧氏と鄭氏のテレビ討論後の世論調査結果で単一候補を決める選定手続きをとった。
02年11月25日深夜0時、盧氏の勝利が全国に発表された。鄭氏は紳士的に敗北を認め、盧氏が次期韓国大統領として選出されるよう最善を尽くすと語った。
こうして韓国政治史に新しい一頁が書き足された。2人の予備大統領候補は候補一本化に対する国民の要求を受け、公明正大な精神に立脚した選定手続きの結果に従った。
特別な縁戚関係を持たない盧氏は、人生のすべてを人々の人権を守るために捧げ、あらゆる政治的難関を克服し大統領候補として立ち上がった。彼が大統領候補に選ばれたことは、韓国のあらゆる地域の庶民と、彼が大統領として奉仕することを熱望した全ての階層の人々の勝利であった。
02年12月19日大統領選挙で、盧氏は鄭氏の最後の支持撤回にもかかわらず、僅差だったが、しかし、確実な勝利を得た。当選後行った国内外記者会見で彼は語った。
今回の大統領選挙は、我々が今一度偉大なる国家としての力量を誇示した歴史的事件であった。
我が国の歴史上初めて、もっとも清潔で、金銭政治と関わりのない選挙遊説を行った大統領を選出した。
歴史上初めて、数万人の有権者が自国の大統領を選出するために選挙資金を寄付し、ボランティアとして活動した。
歴史上初めて、我が国民は候補の政策とビジョンに基づき新しい大統領を選出した。
そして歴史上初めて我が国民は新しい種類の国民統合と政治改革を要求する大統領を選んだ。我々が長い間熱望してきた政治改革はもう始まった。我々が世界に誇れる新しい政治は盧武鉉大統領の就任で今動き始めたのだ。
(2003.03.19 民団新聞)