掲載日 : [2009-05-13] 照会数 : 6517
サラムサラン<5> キム君とキムさん
キム君に出会ったのは、釜山のユースホステルだった。1984年の暮れだったと記憶する。アメリカや香港から訪れた観光客が同室だったが、そのなかに唯一の韓国人として彼もいた。年が近かったし、キム君は流暢に日本語を話したので、すぐに親しくなった。
私は年末年始の休みを韓国ですごしたいというただの観光客だったが、キム君がどういう理由でそこに滞在しているのか、よくわからなかった。キャンプで使うような飯盒(はんごう)を持参していて、室内で米を炊いては、キムチと簡単なおかずで食事をしていた。
私もお相伴に預かることがあったので、お返しに町で酒やつまみを買い込み、夜遅くに部屋で酒盛りをした。焼酎のビンが何本か空いた頃、キム君は一枚の写真を取り出した。「東京に留学していた時の写真です」‐。
正月に撮ったものらしく、キム君は大島紬のような和服を着て、愉快そうな笑顔で立っていた。隣には着物姿の美しい女性がいた。留学中に知り合った日本人のガールフレンドだろうと思った。「彼女です。同じ時に留学していた韓国人です。釜山の女で、キム××といいます」‐。
まだ倭色禁止という不文律があり、日本文化アレルギーの強かった時代である。和服に仲良く納まった若い韓国人カップルの姿は、強烈な印象を放った。今は国民学校(小学校)の先生をしているという彼女に逢いに、彼はソウルから出て来ているのだった。
愛を語る彼の表情に、時折差す影が気になった。訊けば、同姓の彼女とは本貫まで同じで、正規の結婚はできないのだという。「でも、愛があれば、きっと何とかなるはずです」−−キム君はそう言って、唇を噛み締めた。ある晩、キム君は宿所に帰らなかった。翌日の昼、彼女を連れて現れた。女性のキムさんは、恥ずかしげに、だが巧みな日本語で私に挨拶した。人柄も姿も好ましく見えた。
一年たらずのうちに、東京にキム君を迎えた。結局、同姓同本のふたりは結婚を果たせず、彼は再び日本に留学したのだった。やがて、中国学を専攻するために関西方面の大学に移った。まだ韓国との間に国交は開かれていなかったが、これからは中国の時代だと、未来を予見していた。
いつしか音信が途絶え、どこでどうしているか、知りようもなくなった。対中ビジネスの最前線で活躍しているのかもしれない。今では、同姓同本でも結婚ができるように、韓国でも法改正がなされたと聞く。だがおそらく、彼の手元に、あの時の写真はもうないだろう。(作家)
多胡 吉郎
(2009.5.13 民団新聞)