掲載日 : [2009-08-15] 照会数 : 8139
同胞の心映した愛唱歌<上>
[ 在日韓人歴史資料館提供(選者は名古屋市在住の朴燦鎬氏) ]![](../old/upload/4a83c8a3d2631.jpg)
望郷と抗日色濃く
民族一つにした「アリラン」
在日同胞にとって歌とはかつて、故郷・父母兄弟を偲んでは我が身を嘆き、仲間どうしで労わり合い、あるいは錦衣帰郷の希望を託すものだった。そうした1世の心は団塊の世代以上の2世にも通じるものがあり、解放以前に流行った歌が懐メロとして歌い継がれてきた。在日同胞の心を映した愛唱歌を追ってみた。(コリア音楽研究所所長・李雨)
韓半島に西洋音楽が入ったのは高宗19年(1882年)に韓米修好通商条約が結ばれ、キリスト教の布教が合法化されてからだ。
1894年に起きた東学農民戦争の指導者、全 準将軍(緑豆将軍)を称え、広く歌われた「セヤセヤ(鳥よ鳥)」が韓国歌謡の源流ともいえるもので、今でも歌い継がれている。
わずか8小節の童謡とも口伝民謡とも取れるこの歌は、作曲面でも大変な名作とされる。世界的に類を見ないのは「ソ・ド・レ」の3音だけで構成されていること。それが絶妙に歌詞とあって何か不思議な魅力がある。
民族初の西洋的な楽曲は唱歌の「学徒歌」。唱歌は当時新しく生まれた学校などで歌う啓蒙的、愛国的内容だった。1920年代には「鳳仙花」(洪蘭坡作曲)が作られた。これはヴァイオリン独奏曲「哀愁」として発表されたが、後に金亨俊が作詞して芸術歌曲の代表的な名作となった。
「鳳仙花」を歌って拘束
当初は崔ミョンスクがレコーディングしたが、評判がいまひとつだった。その後ソプラノ歌手金天愛が歌い注目を浴びる。天愛は日本の音大で学んでいた1942年、日比谷公会堂でチマチョゴリを着てこの曲を歌い官憲に拘束されている。
この頃、童謡の「半月」「タオギ(とき)」(尹克栄作曲)や「荒城の跡」(王平作曲、全鋳麟作詞)が流行った。最もよく歌われたのが1926年発表の童謡「故郷の春」(李元寿作詞、洪蘭坡作曲)だ。この名作は、作者が中国東北地方の貧しい朝鮮人集落で民族学校の教師をしていた友人を訪ね、授業を参観したのがきっかけだった。
作文の時間でテーマは「故郷」だった。そのときある生徒が「……清らかな小川が流れる私の故郷の春は、桃の花、桜の花、つつじの花が一面に咲く花の村という。しかし今は、日本の靴の下に踏まれ……」とそこまで読んで絶句する。その光景を見た洪が大変強い衝撃を受け、後に「故郷の春」を作ったという。
不動の人気「故郷の春」
筆者が80年代に在日同胞1世100人に愛唱歌のリサーチをした際、「故郷の春」が1位だった。ちなみにNHK調査による日本人の愛唱歌の1位は「赤とんぼ」。誰もが歌える覚えやすい歌という点で共通している。
韓半島の流行歌のはじまりとされるのは、1925年頃に流行った「希望歌」と26年に大流行した「死の賛美」だ。作詞作曲が不詳の「希望歌」は、歌詞の内容から「風塵歌」「絶望歌」とも言われた。
昔の映画やドラマでもよく歌われたが、最近のドラマでは「野人時代」(日帝時代やくざから国会議員になった金斗漢の一代記)にも登場した。韓国の国民的歌手であるチャン・サイクがこの歌を編曲し歌って人気を博してもいる。
「死の賛美」は、人気のあったソプラノ歌手の尹心悳が歌った。彼女は1926年に日本で「死の賛美」をレコーディングしたあと、当時劇作家として名高い金祐鎮と関釜連絡船で帰国途中、玄界灘で投身自殺するというショッキングな事件が起き、それがきっかけで爆発的にヒットした。
曲はイバノビッチ作曲「ドナウ川のさざなみ」のメロディに尹心悳が作詞したもの。「荒れた荒野にさまようお前は何を求めてさまよっているのか……」と人生の無常を歌っている。
ヒットの背景は、2人の道ならぬ自殺事件だけではない。1926年4月に逝去した朝鮮王朝最後の王、純宗の葬儀が6月10日に行われ、それをきっかけに「6・10万歳事件」が起こったように、人々の悲しみと日帝への憤懣があった。
1926年には後に朝鮮のチャップリンともいわれた羅雲奎が監督・脚本・主演した無声映画「アリラン」が誕生し、そのなかで歌われた「アリラン」(後に本調アリランになる)が大ヒットした。ソウルで2年半のロングラン上映の後、地方のすべての映画館で上映され、日本でも上映したが反日的ということで以後は禁止される。
3・1独立運動で投獄された後、残忍な拷問によって精神に異常をきたした主人公ヨンジンが日帝警察の手先であるキホを鎌で刺し殺し、縄に縛られて夕焼けにそまってアリラン峠を越えていくラストシーンでは客席が涙の海になったという。「人々が黒山のように集まり、騎馬隊巡査が並び、泣く人、アリランを合唱する人、朝鮮独立万歳をさけぶ人もいました」と記録されている。
それまで各地で歌われてきたアリランは、メロディだけでも100種類以上、歌詞は3000種以上だろう。日帝の民謡圧迫政策によって各地に眠っている状態だったが、映画「アリラン」は「本調アリラン」を生み、各地で伝承されていた「アリラン」を一気に甦らせた。よく愛唱される「本調アリラン」は民謡と思っている人が多いが、新しくできた新民謡とも新歌謡ともいえる。
絶望と挫折 内に敵愾心
20年代の愛唱歌の内容をみると、絶望と挫折を癒す、厭世的な内容が主流になっている。愛国的で民族的な感情を高める唱歌・民謡・パンソリなど規制されても歌われたが、国を奪われたことへの《恨》が多かった。民族的な「恨」をなだめる歌は一方で、日帝の悪政に対する敵愾心を内にこめもした。
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大ヒットに「反日的だ」
逮捕された作曲家も
30年代に入って最もヒットした曲は「木浦の涙」(作詞文一石、作曲孫牧人)、「他郷暮らし」(作詞金能人、作曲孫牧人)である。「木浦の涙」は当時、《民族の涙》とも言われた。その時代を代表するだけでなく、港物の決定版だともいわれた。何よりも驚くのは5万枚以上が売れたという事実だ。当時の蓄音機の普及台数から見ても驚異的な記録であった。
作曲家の孫牧人先生は当時19歳。あまりにも歌の反響が大きいので日帝に捕まり、2番の歌詞の「反日的な内容をお前は知っていて作曲したのではないか」と言われたが、いろいろ知恵を絞って切り抜けたことなど、後日談を聞いたことがある。
「他郷暮らし」は、国を奪われ他郷で暮らさねばならない悲しみを歌い、《民族のエレジー》と言われた。私が80年代に1世の人たちの愛唱歌のリサーチをしたとき流行歌ではこの歌が1位だった。
この頃にはまた、記念碑的なヒット曲「涙に濡れた豆満江」がある。作曲家の李時雨氏は中国東北で公演中、独立軍で戦死した夫の秘話を図們(トモン)で聞き、これをモチーフに作曲し、その日の公演で歌った。
会場は涙の修羅場となり、何回も何回もアンコールされたと伝えられている。最初1番だけを作って、後に2番、3番を作り、歌手金貞九によりレコーディングされ大ヒットした。
同じころ1937年には、オーケーレコードで「連絡船は出て行く」が人気歌手張世貞によって歌われた。この歌は80年代、関釜連絡船が高速船になったことが話題になり再ヒットした。
私がリサーチした愛唱歌で上位に入るのは、白年雪が歌う「淋しき旅人(ナグネソルム)」「番地なき酒幕」「不幸者は泣きます」、さらに1939年の映画「愛はだまされ金に泣き」の主題歌としてヒットした「紅桃よ泣くな」と続く。
忘れてはならない当時の歌手に南仁樹がいる。美声で人々を魅了した彼が歌う「落花流水」「哀愁の小夜曲」は本国では「木浦の涙」「他郷暮らし」と比較されるほどの大ヒットを記録した。ただ、在日の生活は小夜曲(セレナーデ)どころではなかったのか、本国ほど愛唱されていない。
南は解放後いち早く「感激時代」を歌い、南北が分断されると「去れ38度線」を歌った。60年代には「別れの釜山停車場」でも知られる。
(2009.8.15 民団新聞)