掲載日 : [2009-08-15] 照会数 : 11998
思い込め「こころ」を生きる 歌手沢知恵さん
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ピアノ弾き語りの歌手、沢知恵さんには1997年のアルバム「フー・アム・アイ?」のリリース以来、格別な思いを込めて歌い続ける曲がある。祖父であり、詩人でもある金素雲の訳・編による「朝鮮詩集」に収録されていた金東鳴の「こころ」だ。優しい旋律と美しい言葉に多くの人が共鳴し、夏川りみ、持田香織ら多数のアーティストにカバーされている。植民地時代の制約下にあって、詩や民謡、童謡を流麗な日本語で表現し、民族の精神や文化を日本に伝えた祖父のように、沢さんもまた、歌を通じて、真の韓日文化交流の担い手を目ざす。
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優しい施律 美しい言葉
韓国文化の根にある詩の泉
「詩というのは朗読した時点で、パーフェクトなんです。そこに曲をつけるというのは破壊行為。破壊して再構築するだけの力量がなければ、やらないほうがいい」
これまで曲をつけた詩人たちは、金素雲をはじめ、金子みすゞ、茨木のり子ら。全人生をかけて、生涯を詠み抜いた詩人たちの作品に、心惹かれる。
「私が歌った時点で、誰の作品であったかというのは関係ない。私の表現なんです。それぐらい戦っていかないとできないし、覚悟はしています。だから私もこの詩を生きなければいけない。まして自分が生きられない詩は、歌っていても嘘になる」
沢さんは神奈川・川崎市で日本人の父と、金素雲を父とする母の間に生まれた。両親はともに牧師。父は60年代、東京神学大学大学院在学中に、韓国に留学。いったん帰国後、戦後初めて、日本人宣教師として、家族とともに韓国に渡った。沢さんは2歳だった。
6歳から2年間、父の留学に伴い、アメリカに移り住んだ。再び韓国に戻るが、父が民主化運動を擁護したとして、出国命令を受けて日本に戻った。高校入学後すぐに、再び父の留学でアメリカへ。その後,再び日本に戻った。
歌手デビューは東京芸術大学音楽学部楽理科在学中のとき。ライブハウスで弾き語りをしていてスカウトされた。
「朝鮮詩集」と衝撃の出会い
沢さんが「朝鮮詩集」に収録された「こころ」と出会ったのは、「運命的」だった。デビュー当時、英語で歌うことが格好いいと思っていた。でもそれは、勝手な思い込みにすぎず、ライブでの活動中、会場に集まった人たちには、日本語が一番、心に響くと気がついた。
「どんな日本語を歌ったらいいのか」。歌いたい言葉、歌うべき言葉を探していた。
自宅に祖父の本が詰まった本棚があった。ほこりをかぶり、いつも通り過ぎていた本棚だ。ある日、ふと、立ち止まった。背表紙のない、1冊の背の低い本が目に止まった。セピア色にあせていた、金素雲訳・編の「朝鮮詩集・乳色の雲」(河出書房、1940年刊)だった。
読み進むうちに心臓がばくばく鳴りだした。 「あまりにも言葉が美しくて、ふくよかで、こんな日本語は見たことがなかった。印刷された詩ですが、それが浮き上がってくるように、立体的に飛び出してきた」
それまでのどの言葉とも次元が違った。声を出して詠んでいると、その場でメロディーが浮かんだ。
旋律をつけた「こころ」をライブで初演したときのことだ。聴衆のなかから鼻をすする音が聞こえた。後になってスタッフから、「皆、泣いていた」と告げられた。
「『こころ』という詩に出会ったときは何も考えず、ただ、感動し、心が動いた。この曲を聞いた人がどう解釈しているかは、私は気になりません。いろいろな心の風景を映し出してくれる奥の深い作品だから、どのように受け取られてもいいんです」。悠揚とした曲と言葉が合わさり、どこまでもイメージは広がる。
「こころ」は特別な曲。「この曲だけは違う、しみいり方が。それがほかの曲と比べて、何がそんなに違うのか今も分からない」
祖父・金素雲の目ざしたもの
「祖父の金素雲と、詩人の金素雲は別人」だという。
祖父はロマンチストでもあり、世話好き。「祖父の詩には深刻で、メッセージ性のある作品もあります。でも最後には明るさや希望がいつもある。どんな絶望のどん底に落ちても必ず這い上がる人間の力、生きる力があります」
金素雲は、幼くして両親と別れて、12歳で日本に渡った。韓国と日本を往来しながら、19歳のときに白鳥省吾が主宰する雑誌に連載した、「朝鮮の農民歌謡」をきっかけに、日本の文壇に認められた。
21歳で日本語訳の「朝鮮民謡選」を刊行後、「朝鮮童謡選」「朝鮮詩集」などが刊行された。
「祖父も金東鳴さんも韓日の言葉と文化、人間の悲しさを知っていた。でもそこには尊厳と、りりしさがあった。祖父がこれらの作品を訳した目的は、植民地下における朝鮮の人の詩心、歌心を日本の人に伝えたいということでした」
日本で韓国のことを理解しようとするとき、文化の根っこにある、尽きることのない詩の泉が流れていることを意識せざるを得ない。
「詩がベストセラーになる国はものすごいこと。皆、歌が上手いし、ユーモアもあり、行くと元気になる。そこを日本の人には知ってほしい。そのためにも、祖父の訳した詩は時代を超えて、日本で読み継がれていってほしい」
祖父がやろうとしていたことの一部を担えれば嬉しい。でもそれを使命と感じたことはない。
沢さんは自身のことを決して、「在日」とは言わない。
「私は差別をされたこともなければ、生まれたときから日本籍です。在日というのは、そんなに生やさしいものではないと思っています。私は在日の人の苦しみの1㍉も知らない。でも自分は日本に生きるコリアンとしての意識は強い。それは自慢です」
ふたつある自分のなかで、特にコリアンが大好きという。確かに、食べさせたいと思う気持ち、世話好きなところはコリアンそのものといっていいだろう。
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真の韓日文化交流の担い手へ
今、人とのつながりを楽しむ
沢さんには、忘れられない思い出がある。以前から、茨木のり子のファンだった。
茨木の「ハングルへの旅」(朝日文庫)を読んだとき、祖父の名前をみつけて驚いた。茨木が10代のときに愛読したのが金素雲の「朝鮮民謡選」(岩波文庫)。「金素雲氏の秘められた抵抗精神を受けとらざるを得なかった…」。金素雲の蒔いた種子は、茨木のなかでゆっくりと育っていった。
茨木のり子の代表作も歌に
沢さんは茨木の代表作を歌にしている。CDにする際、許可を得るための手紙を送った。自分が金素雲の孫であることもしたためた。
「太い鉛筆で書かれた返事がきました。早く会いに行こうと思っていたら、半年も経たないうちに亡くなりました。間に合わなかったことが悔やまれました」。会うことはかなわなかった。だが「最後に引き寄せてくれた」と強く思う。
金素雲と茨木の2人には、「極上のユーモアと、揺るがない抵抗精神」の共通点があると話す。
沢さんは現在、1男1女の母親でもある。子どもを持ったことで、変化が出てきた。
「自分も人も許せるようになった。それまでは、いつも人を刺して歩いているような感じでした。昔も今も歌に命をかけているけど、そのかけ方が少し違ってきた。大きな摂理のなかに組み込まれた者として、謙虚にというか、歌わされているという感じになりました」
今、人とつながること、知らなかった世界を知ることを楽しんでいる。子育てを通して、自分の子ども時代を生き直しているようであり、母親との関係を見つめ直すこともある。
「夫は日本人です。子どもをどう育てたいかと思ったとき、この子たちにコリアンであるということを、『どういうふうに意識づけしていきたいのか、私は』という自問も含め、私はコリアンである自分をどこまで受け止めているかなと考える機会にもなっています」
金素雲が民族の精神と文化を日本に伝え、牧師の父もまた韓国を愛し、韓日の和解に命を捧げた。「2人の血が、私のなかで出会うというのはものすごいこと。祖父と父は覚悟と無骨な精神を持って生きました」
来年、久しぶりの韓国公演を予定している。近年、歌手としての自分に自信がついてきたと同時に、やるべきことが少しずつ見えてきた。
「私は両方の交流者です。私が韓国で歌うこと、その話題を日本に持って帰ることで、改めて韓日文化交流とはなにか、どうあるべきか、ということを提示してみたい。そのチャンスの時期が、私にとっての新たな扉になるのでは」
だからこそ「自分にも人にも嘘のない姿勢で歌っていたい」と、真摯な気持ちで歌に向き合う。
こころ
わたしのこころは湖水です
どうぞ漕いでお出でなさい。
あなたの白い影を抱き
玉と砕けて
舟べりへ 散りませう。
わたしのこころは燈火です
あの扉を閉めてください。
あなたの綾衣の裾にふるへて
こころ静かに
燃えつきてあげませう。
わたしのこころは旅人です
あなたは笛をお吹きなさい。
月の下に耳傾げて
こころ愉しく
夜を明かしませう。
わたしのこころは落葉です
しばし お庭にとどめてください。やがて風吹けば さすらい人
またもや
あなたを離れませう。
(詩/金東鳴 訳詩/金素雲 作曲/沢知恵)
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プロフィール
沢 知恵(さわ ともえ) 1971年神奈川県川崎市で、日本人の父と韓国人の母の間に生まれる。両親ともに牧師。母方の祖父は韓国の詩人である金素雲。幼いころから日本、韓国、アメリカと移り住み、ピアノに親しむ。東京芸術大学音楽学部楽理科在学中に歌手デビューし、現在まで19枚のアルバムを発表。98年には韓国で解放後初めて、日本籍を持つ者として公式で日本語で歌い、同年第40回日本レコード大賞アジア音楽賞受賞。01年より毎年、香川県ハンセン療養所大島青松園で無料コンサートを行っている。
(2009.8.15 民団新聞)