掲載日 : [2009-09-30] 照会数 : 8370
<北送50年>目そらすまい悲惨な現実
未だに賛美する総連
北シナリオに追従 「地上の楽園」とだます
「祖国は地上の楽園」との北韓当局・総連の虚偽宣伝および日本政府・政党の積極的協力と日本マスコミあげての北韓体制賛美キャンペーンのもとで推進された「北送事業」(59年12月〜84年)開始から50年になる。同事業で北韓に渡った9万3340人(日本人妻含む)の同胞を待ち受けていたのは日本でよりもはるかに厳しい生活であった。北韓の身分体制の最下層に置かれ、日本との往来も禁じられた。長年にわたる差別・抑圧と慢性的な食糧不足という過酷な状況に絶えられず、命がけで脱北した元北送同胞家族の一部が日本に戻ってきている。「北送事業」に全力をあげて取り組み「幻想」を振りまいてきた総連中央は、自らの責任を否定し、いまだに「オボイ(親)首領様(金日成)」の温かい配慮、至上の同胞愛から実現したと、同事業を賛美してやまない。
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「同胞の願い」のウソ
事前準備された「中留分会」手紙
北送事業について、総連中央は「59年12月14日、第一次帰国船が新潟港を出港、在日同胞が夢にまで見た祖国への帰国が実現した」、「帰国運動は共和国側から提起されたわけでもなく同胞の自主的要求だった」としている。
「帰国運動の本格的な始まりは、58年8月11日に総連川崎支部中留分会の同胞たちが帰国を希望する金日成主席あての手紙を採択したことだ。そして、13日の祖国解放13周年記念中央大会で手紙の送付が決まった。主席は共和国創建10周年記念慶祝大会で在日朝鮮人の帰国を『熱烈に歓迎します』と表明、『民族的義務である』とまで述べた。総連は帰国を希望する同胞たちの要求をくみ、この運動を大衆運動として展開した」(「朝鮮新報」04年1月20日「総連の歩み④」)と、あくまでも同胞の要求に基づくものであるかのように主張している。
だが、中留分会での金日成あての手紙の採択は、北韓当局の指示に基づき、「帰国運動」を扇動するため総連中央があらかじめ準備していたものであった。
中留分会「集団帰国決議」の約1カ月前の7月14日、金日成は面会した北韓駐在のソ連臨時大使に「我々は、日本在住のすべての同胞が自ら祖国に帰ってくるよう勧めており、この問題について日本政府と合意に達したいと希望している。この点について我々は近く声明を出す」と述べ、「共和国に帰ってきた、すべての朝鮮人は、住居と仕事、すべての政治的・経済的権利を得、彼らの子供たちは共和国の学校、大学で教育を受けるようになることを強調するつもりだ」と明らかにしている(菊池嘉晃「北朝鮮帰還事業の爪痕」〈「中央公論」06年11月号〉)。
組織をあげての「帰国」宣伝煽動
こうした北韓当局のシナリオに基づき、総連は北韓を「地上の楽園」であり、「医療費はすべて無料。家や希望する仕事もあり、楽園の暮らしが保証される」との宣伝を繰り返し、「新国家建設のために帰国して祖国に貢献しよう」などと、組織をあげて「帰国」を煽った。前出の「朝鮮新報」は「59年10月までに、大小の集会は1万9322回、延べ234万9500人が参加し、2739万5000枚の宣伝物が配布された」と強調している。
「北送事業」開始前に作成された総連中央帰国対策委員会「帰国者に対する実務推進要綱」(59年4月)は「帰国者の一切の財産を祖国に運ぶために」と題して、次のような指示を傘下組織や帰還者らに与えている。
「携帯物品に対して帰国者は祖国の富強な建設に供給することが自己の幸福を享くのと関連して(略)自己の所有物をすべて祖国へ移動すると同時に、余裕がある同胞は、祖国建設に必要な物品を少しでも購入して持って行くようにする必要がある」。さらに、物品の購入は総連の指導に基づくようにと指示している。
「衣食住の問題は完全に解決」
総連中央が、作成した「帰国者のための資料」第2集(59年11月)では「人民経済の発展と共に人民生活は毎年豊かになり、朝鮮人民は共和国北半部を地上の楽園と呼び、幸福な生活を楽しんでいる」とし、「食糧問題はすでに解決され、(略)住宅は都市には高層アパート、農村では瀟洒な文化住宅が建設され、衣食住問題が完全に解決されるようになる」と宣伝していた。
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はなから最下層に
約束すべて空手形
日本人妻帰省も適わず
「帰胞」等と差別貧困・飢え直撃
「帰国者」は悲惨な運命をたどった。「地上の楽園」と喧伝された北韓の生活水準は極度に低く、ごく一部の総連幹部や有力幹部商工人家族などを除き、大部分は、山間僻地の炭鉱や農村・工場地帯に配置され、掘っ立て小屋に押し込まれた。
社会の最下層に置かれ、しかも日常的な監視対象に位置づけられた。一般の北韓住民からは「帰胞」などと呼ばれ差別されるなど、過酷な状況に置かれた。「日本に帰りたい」と言えば、政治犯用の精神科病院へ強制入院させられ、少しでも不満を口にしようものなら政治犯収容所に送られるか抹殺された。
北送開始の59年末から61年までに合計7万4779人が北送船に乗った(59年=2942人、60年=4万9036人、61年=2万2801人)。
だが、「地上の楽園」などではなく悲惨な境遇をを示唆する手紙が、日本にいる身内・親類に届きはじめ、62年には年間約3500人まで激減。その後も一貫して減少し続け、67年11月で一端打ち切られた(155回配船、計8万8611人)。
飢えや貧困の中、日本の親族と連絡が取れず、その後、消息がわからなくなった人も多い。
「協定」延長させ84年まで北送
総連は「地上の楽園」ではないこと、しかも再び日本に戻ってくることはできないことを知りながら、北韓の指示に従い、帰還協定延長運動を展開することにより、71年5月から84年まで北送事業を継続させ、同胞を送り込んだ。
「帰国同胞」は、「地上の楽園」であり、「南への帰郷も、日本との往来も遠からず可能になる」との総連の宣伝を信じていた。「3年後には里帰りできる」と言われて夫に同行した日本人妻も少なくない。
しかし、北韓当局は、現在まで一貫して、国際法的原則である「出国の自由」を保障していない。ちなみに世界人権宣言は「すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する」(第13条第2項)と規定している。
総連では「(帰国船は)一時中断したが、71年に再開した。また65年、日本再入国の権利を勝ち取り祖国往来の道も開かれ、79年からは、定期的な祖国訪問が実現している」と、あたかも在日同胞にとり大きな成果であるかのように宣伝している。
79年8月から始まった「在日同胞短期祖国訪問団事業」では大型旅客船が新潟を往来するようになり、家族や親族訪問の道が開かれたとしている。だが、日本からの一方通行で、北韓当局は、「帰国同胞」の日本への自由往来はもとより、一時帰省や墓参りすら、いまだに認めていない。
「人質」として送金・援助促す
そうしたなかでも、裕福な商工人親族が日本にいる者や総連大幹部の家族らは、巨額な寄付・補償によって単独で、あるいは訪日代表団のメンバーの一員として密かに帰省している。この場合も、家族ぐるみの帰省は許していない。
「帰国同胞」を、総連の活動から離脱させないための「人質」にするとともに、在日家族・縁者からの巨額な送金や援助を促して利用するためだ。
総連中央では「祖国への自由往来は在日朝鮮人の権利である」と日本政府に要求してきた。しかし、肝心な「帰国同胞」家族の生死・住所の確認と在日家族・親戚との自由な再会・相互訪問の実現については、北韓当局に対して要求せず、口をつぐんでいる。
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日本にたどり着いた元在日脱北者家族ら
総連 謝罪せず〞脱落者〟視
民団 人道的支援を続ける
第3国経由して現在150人に
命がけで北韓を脱出し、第3国を経由してようやくの思いで日本にたどり着いた元在日北送同胞とその家族らは約150人にのぼる。
その構成は、北送同胞(日本生まれの同胞・日本人妻)よりその子息(北韓生まれ)らの数が多くなっている。飢餓の常態化が伝えられる北韓の窮状を考えれば、日本に入ってくる元在日同胞関係家族らは、さらに増えるだろう。
このような「脱北在日同胞」らに、総連中央は謝罪して支援の手を差し伸べるどころか、「裏切り者」「犯罪者」「脱落者」視して、かかわることをいっさい拒んでいる。
03年6月に発足した民団の「脱北者支援センター」は、すでに日本に戻っていたり、今後日本に入国してくるであろう元在日同胞を中心とした脱北者を対象にしている。
民団は、59年の北送開始に際して、組織をあげて強く反対し、新潟に向かう「帰国列車」を実力で一時停止させるなど阻止運動を展開した。
同じ在日の歴史を刻んだ同胞として、脱北同胞の苦境を座視できないとの自然な情愛と純粋な人道的立場から、彼らの日本定着に向け支援してきた。同時に、日本政府に対して制度的な支援の必要性を訴えてきた。
06年6月の日本国会で成立した「北朝鮮人権法」は「政府は、脱北者(北朝鮮を脱出した者であって、人道的見地から保護及び支援が必要であると認められるものをいう)の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努めるものとする」とうたっているが、まだ機能していない。
「センター」役割ますます大きく
支援センターでは、日本政府や脱北者支援のNGOなどを通じて連絡が入ると担当者が空港に出迎え、定着支援金として1人あたり10万円を支給してきた。この間、約130人に就業斡旋、住宅斡旋、日本語学校と韓国語のできる医師の斡旋、健康診断などの支援と個別相談など、定着に必要な支援を、民団の地方本部・支部および団員有志らの協力を得て実施している。
総連中央は、このような民団の「脱北者支援センター」の活動を非難して、その解体まで画策してきた。その結果、06年の「5・17事態」(総連と通じた河丙中央団長の総連本部訪問と民団・総連5・17共同声明発表)で一時活動を休止させられた。
こうした妨害策動にもかかわらず、多くの同胞の共感を得て、支援センターの役割はますます大きくなっている。
(2009.9.30 民団新聞)