掲載日 : [2010-01-01] 照会数 : 11877
<平城京遷都1300周年>古代の韓日交流に再び光
[ 古代東アジアの交流を再現する歴史絵巻の四天王寺ワッソも今年20周年。改めて脚光を浴びることになりそうだ
] [ 平城京の外部門のひとつ朱雀門(復元) ]
西暦2010年は平城京(奈良の都)遷都1300周年でもある。いろいろと話題を呼んだ記念キャラクター「せんと君」もいよいよ活動本番を迎えることになる。
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そこは世界有数の人口20万
律令制機に国際都市めざす
西暦710年3月10日、元明(げんめい)天皇は遷都を宣し、それまでの藤原京を離れて中ツ道を北上、建設半ばの平城京へ向かった。その途中で「飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君が辺は見えずかもあらむ」との歌を残している。
43代目天皇とされる元明は、42代・文武(もんむ)天皇の母親で、文武の夭逝後に女帝となった。文武の父親は草壁(くさかべ)の皇子(おうじ)で、草壁の父は40代天皇の天武(てんむ)、母は41代・持統(じとう)女帝である。
672年、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武は、天智(てんじ)天皇が築いた琵琶湖畔の大津近江京を廃して、飛鳥の地へ都を戻した(飛鳥浄御原宮)。天武の死後、天皇となった持統が藤原京へ遷都し、持統と文武の2代の天皇がそこを城都とした。そして1300年前、元明女帝が奈良盆地北端の地に新たな城都(平城京)を建設したのである。
遷都の理由は様々に述べられているが、律令制度を整え終えた大和(やまと)王権が、中国にならって「小帝国」の自負を持ち始め、国際的城都造りの意志を明確に内外に示そうとしたことは確かだろう。一方で、現実的な要請もあった。当時、律令制度の展開によって役人はすでに6000人に達し、家族らを含めると約20万人が平城京の3分の1の広さの藤原京にひしめいていた。近年、藤原京の規模はもっと大きかったらしいとの考古学的発見もあるが、やはり新天地への移動の要請は高かったはずだ。
奈良時代、日本列島の総人口は約550万人と推定されているが、20万人の人口を擁する平城京は、当時の世界的大都市の一つであったと言えよう。都の八条には東西に定期市がたち、さらに多くの人々が交流していた。ちなみに現在の奈良市の人口は約35万人である。
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ナラ(奈良)の語源は!?
古くは「村」や「都」の意 韓国語と強い関係
平城京が広がる場所は奈良、あるいは寧楽と表記されて「ナラ」と読む。ナラは現在の韓国語でも「国・国土」の意味の나라(ナラ)だが、それが奈良(なら)の語源ではないかとの説が有力だ。
나라(ナラ)には、古くは村や都の意味もあった(朝鮮語大辞典・角川書店)。もちろんこの説への反対論もある。
ナラとは土地を平らに均(なら)すという意味から来ているのではないかとの指摘も多い。
ところが、この均(なら)すという語も、韓国から北方の中国東北部(旧満州)地域においても、同じ意味で使われてきた。現在の韓国でも田畑を均すという意味でも使われている。馬鍬で土地や田畑を均すことを나래질(ナレチル)と言い、田畑を均す農夫のことを나랫군(ナレックン)と言う。
一方、ナラとは城都に家並みが整然と並(なら)んでいるから、都大路が東西に格子状に並んでいるからそう呼ぶのではないかとの説もある。この説をとっても、現在の韓国語で並びそろっているという意味の動詞が나란하다(ナランハダ)で、まっすぐに、並んで、と言う意味の副詞が나란히(ナランヒ)だ。ここでもナラと発音する韓国語と奈良との強い関係が存在する。
ましてこの当時、平城京に限らず城都の建設には渡来系氏族が大きくかかわっていた。このことこそ、ナラと나라(ナラ)とが深い関係にあることの証拠ともいえよう。
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総責任者は東漢氏
渡来人の技術・財力 朝廷の屋台骨を支え続け
治水などにもたずさわった
平城京建設の総責任者、現場監督である「大匠(おおたくみ)」は坂上忌寸忍熊(さかのうえいみきおしくま)との記録がある。坂上氏とは、平安時代初期の「蝦夷(えぞ)征伐」で有名な坂上田村麻呂を輩出した氏族だが、もともとは飛鳥の檜前(ひのくま)を本拠としていた東漢(やまとのあや=倭漢とも表記)氏と同族である。
東漢氏とは、日本書紀によるとその始祖の阿知使主(あちのおみ)とその息子の都加使主(つかのおみ)が、応神朝(4世紀)に韓半島から渡来したとされる。後漢王朝の末裔との主張もあるが、実際には百済系渡来氏族と思われる。同様に百済系渡来氏族とされる西文(かわちのあや)氏とともに、大和王権の公文書作成に深く関わっていた「文書係」家系として知られているが、一方で、城都建設や治水、造船などにたずさわる「土木系技術者集団」でもあった。同じ応神朝に韓半島から渡来し、中国の秦王朝の末裔と自称していた秦(はた)氏とは、よく比較対照される存在だ。
どちらも韓半島から先進技術と財力、そしてマンパワーをたずさえて渡来してきたが、秦氏は新羅系で主に農業、鉱業、織物、醸造技術などの殖産産業を支え、歴代の大蔵大臣を輩出するなど、財政に力を発揮した。東西の漢(あや)、文(あや)、書(あや))氏は百済系で、財力でも貢献したが、主に文書作成(著名な漢字学者の白川静氏は、漢字の訓読みは漢氏が発明したのではないかと述べていた)と土木技術を担っていた。どちらの氏族も4〜5世紀の大和王権確立以降、少なくとも平安時代までは(宮中ではその子孫が活躍している現在までも)、朝廷の屋台骨を支え続けていた。
土木技術の力 発揮の跡散見
東漢氏が、土木技術で力を発揮していたことは様々に散見できる。
孝徳(こうとく)朝(645年〜665年)、難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや=大阪市法円寺付近)建設の大匠(おおたくみ)に荒田井直比羅夫(あらたいのあたいひらふ)がいた。舒明(じょめい)朝(628年〜641年)の百済宮の百済大寺(現在の奈良県広陵町または奈良県橿原市木之本町、どちらにも字名で百済が残っている)の造営には書直県(ふみのあたいあがた)が大匠として活躍した。
さらに書直県は650年に、遣唐使のための百済船2隻を安芸国(広島県)で建造、荒田井直比羅も難波で運河造成などの治水工事を行っている。また沙門智由(さもんちゆう)という人物が斉明(さいめい)朝(655年〜661年)に測量に必要な指南車(しなんしゃ)を作っている。全員が東漢氏の同族である。
平城京建設のための木材などの資材搬入は、奈良市北方の木津川経由で運ばれ、木津町あたりで陸揚げされていたが、その資材責任者も文宿奈麻呂(ふみのすくなまろ)と正倉院文書にある。文氏も漢氏と同族である。
蘇我氏に匹敵 大古墳を発掘
最近、飛鳥・檜前(ひのくま)で東漢氏の古墳が発掘され、同様に飛鳥を本拠に政治権力を握っていた蘇我氏の古墳(石舞台など)に匹敵する規模との報道があった。平城京遷都1300周年を機会に、東漢氏の「力量」を改めて見直してみてはどうだろうか。
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都はほぼ渡来氏族の本拠地
土地選定に影響力 建物群造成にもかかわる
渡来氏族は城都(宮都)の建設に貢献しただけではない。5世紀末の推古(すいこ)朝・飛鳥豊浦(とゆら)宮(甘橿の丘の北側と推定される)以降、794年の桓武天皇による平安京遷都に至るまで、城都が置かれた場所は、ほとんど渡来氏族および蘇我氏のように渡来氏族と推定される一族の本拠地であった。
天智朝(661年〜671年)を除く推古から持統までの各王朝の宮都は、全て飛鳥にあったが、そのほとんどは東漢氏および蘇我氏とその関連氏族の本拠地であった。
天智天皇は大津近江京に遷都したが、琵琶湖西岸のその地は、百済系有力氏族たちの土地が並んでいる場所だった。
藤原京および平城京の建設には、奈良盆地の中で平地がより広がっている北方への進出という、地政学的理由も大きいと思われる。しかし、当時の最高実力者、藤原不比等(ふひと=藤原鎌足の子)の影響も見のがせない。
もともと中臣(なかおみ)だった藤原氏は藤原京がたてられた場所の地名から姓を賜り、平城京の建っている場所は藤原氏自身の土地であった。そこは5〜6世紀までは元来、古代豪族・和珥氏の本拠地で、春日大社がある場所は和珥氏系春日氏の土地だった。7世紀になって、実力をつけた藤原氏がその地を奪い(?)、春日大社を氏神に、興福寺を氏寺として構えた。
藤原氏と渡来氏族との関係は不明だが、平城京の北側、木津川を越えると高句麗系渡来氏族、狛(こま)氏の本拠地がある。この地とのかかわりは無視できないと思われる。
史実にもっと注目をしよう
狛の地に、747年に聖武(しょうむ)天皇が恭仁(くに)京を建設し、一時遷都した。聖武はさらに744年に難波京に遷都し、745年に平城京に復帰する。聖武の迷走の理由は不明だが、一時的に遷都したそれぞれの地は有力渡来氏族の根拠地だ。
そして794年、桓武天皇は平安京に遷都する。その10年前に遷都した長岡京とともに、それぞれ渡来氏族が支配していた場所だ。長岡京とその周辺には百済系氏族が多く居住し、平安京はほぼ全域が秦氏の土地であった。
古代の城都造りに、土地選びから建物群の造成にまで、渡来氏族が深くかかわっていた。この事実も、もっと注目されていいだろう。
(2010.1.1 民団新聞)