掲載日 : [2010-01-15] 照会数 : 5964
サラムサラン<16> エンジュの木の下に〈下〉
北京アジア大会の期間中、私は1日とあけずに朝鮮族の朴君の食堂に通った。隣家の主人の殴り込みに遭う事件の後、朴君はいつしか私を「ヒョンニム(兄上)」と呼ぶようになった。嬉しくもこそばゆくもあったが、食事をしても決して代金をとろうとしないのには、すまない気がした。 大会も残り少なくなったある日、私は朴君夫妻を夕食に招待した。当時、北京で最大規模を誇った朝鮮料理のレストランだった。彼らはきちんと正装して現れた。朴君はネクタイに背広姿、夫人の張粉女さんはパンタロンスーツに身を包んでいた。3歳になる小さな息子も一緒だったが、やはり可愛らしいよそ行きの服を着せられていた。
レストランは北朝鮮系らしく、私が韓国で馴染む料理とはかなり趣を異にしていた。それでも、夫妻はとても喜んでくれた。北京市内に一流の朝鮮料理のレストランがあること自体が、嬉しく思えるらしかった。いつかこうした店を自分も出してみたいと、朴君は夢を語った。食事の後で、カラオケに行った。朴君の歌は音程が怪しかったが、いつもは言葉少ない夫人が、気持よさそうに、そして実に上手に歌うのには驚いた。楽しい一夜だった。日頃はご馳走になりっぱなしの「ヒョン」の面目を、少しは果たせたようにも思った。
アジア大会も終わり、北京を後にすることとなった。出発の前の晩も、私は朴君の店に寄った。別れを前に、町で買った贈り物を渡した。朴君も、私へのお土産を用意していた。光の色や模様を次々に変えるハイテクの電飾スタンドだった。だが、電圧が違うため、日本に持ち帰れば使用不能の代物だった。翌日の出立は早朝だったが、私は電飾スタンドをつけてもらいながら、北京の「弟」夫妻との最後の時を、深夜まで惜しんだ。
住所を交換して別れたが、半年ほどたった頃、北京の店をたたんで延辺に帰るという便りが届いた。さらに1年ほどして韓国から便りがあり、出稼ぎで半年ほど、大田の建設現場で働くことになったと書いてきた。仕事場の電話番号が記してあったので、電話を入れてみたが、呼び出しに手間取り、つながらなかった。日を変えて何度か試みたが、ついに韓国の朴君とは話ができなかった。
その後、いつしか連絡も途絶え、今では住所もわからなくなってしまった。あれから19年がたつ。目を閉じると、「ヒョンニム!」と呼ぶ彼の明るい声や、夫人の美しい歌声が蘇ってくる。願わくば、彼らの人生の順風ならんことを。在中韓国人の彼らの努力が、必ずや報われんことを…。
多胡 吉郎
(2009.12.23 民団新聞)