掲載日 : [2010-03-17] 照会数 : 12374
「壤夷」か「開国」か再びの日本…桜田門外の変から150年
[ 何を思うか井伊直弼像
大老井伊掃部頭直弼(たいろういいかもんのかみなおすけ)の銅像。1909年の横浜開港50周年に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績を顕彰するため建立、この丘を掃部山(かもんやま)と名づけて記念した。当初の銅像は戦時中の金属回収にあった。現銅像は1954年、横浜市が製作した。一帯は横浜市地域史跡に指定されている ]
桜田門外の変から150年
激動の幕末を象徴する大事件米英など5カ国と修好通商条約を結んだ大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」から、3月24日でちょうど150年になる。攘夷と開国の間で凄まじい葛藤があった往時と、永住外国人地方選挙権問題で見せる現在の日本の姿はよく似ている。ミニチュア現代版といって過言ではあるまい。永住外国人が日本の安保を阻害するかのように主張する反対運動は特に、幕末の攘夷運動をほうふつとさせずにおかない。
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「ガラパゴス現象」からの脱却
強まる閉鎖性への懸念
遅々と進まぬ内なる国際化
尊王(天皇を国政の中心と考える)と佐幕(江戸幕府の存続を支持する)、攘夷(外国人排撃)と開国など、幕末思想と呼ばれる思潮が複雑に葛藤し合い、桜田門外の変は起きた。これは幕府の権威を失墜させ、尊王・攘夷・倒幕派を勢いづかせた。だが、薩摩・長州の両藩が外国との戦いに敗れるに及んで、攘夷の軌道は修正されて尊王・開国・倒幕へと雪崩をうち、明治維新へと突き進む。
しかし、この当初の開国策については、現状の武力では外国勢力を打ち払えないとの痛感から、小さな攘夷運動を排して外国から学ぶべきは学び、天皇を中心とした強固な国家をつくった上で、決定的な攘夷に打って出ることを目的にした術策・方便であったとも言われている。
それが実勢だったとすれば、日本はアジア諸国を侵略して欧米勢力を駆逐し、「大東亜共栄圏」を形成することで「決定的な攘夷」を敢行しようとしたと解釈できなくもない。そんな戯言はさておき、日本人はよく、第1の開国=明治維新、第2の開国=敗戦後の復興の、その決定的要因はともに外圧によるものであり、自らの未来ビジョンとして積極的に打ち出したものではないと言う。
そして、こうした歴史的経緯を踏まえながら、日本自らが積極的に国際的な共生時代と向かい合い、内なる国際化を進めようとの「第3の開国」論をオピニオン・リーダーらが唱え始めてからも、相当な期間が経過してしまった。
しかし、この第3の開国論は現実的な要請に基づくものだけに、時を追って力強くなっている。
世界の市場で伸び悩む現実
そのキーワードは、グローバル化を阻む「ガラパゴス化現象」からの脱却である。あのゾウガメやイグアナで有名なガラパゴス諸島は、どの大陸からも隔絶されているため、独自の進化を遂げた固有の生物が多い。その独自性がゆえに、また外部との交流が閉ざされているがゆえに、他所で生き抜く術を持たない。今では急な環境破壊によって、絶滅の危機すら憂慮されている。
1億人超の豊かな国内市場を持つ日本経済は、特有の商習慣と高い機能や付加価値を求める消費者によって鍛えられ、技術やサービスなどが独自の進化を遂げてきた。しかし、その多くが世界最高水準で独自性もまた強いがゆえに世界標準から乖離し、世界市場でのシェアが伸び悩む現実がある。
これを日本のガラパゴス化と呼び、ますます人口が減少し国内市場が細っていく展望のなかで、今では深刻な懸念の代名詞となった。
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「第3の開国」論と地方自治
合理性の帰結「参政権」…永住外国人こそパートナー
世界と共生の発想を前面に
第3の開国論は主として経済分野から提起されている。もちろん、経済に加えて地域の軍事面での安全保障、さらにはテロ・海賊・難民・感染症といった一連の非伝統的安保問題への共同対処という、地域ガバナンスを強化する側面からの提唱もある。つまり、東北あるいは東アジアの地域共同体を形成しようとする視点だ。
ガラパゴス化現象から脱却するために、まず世界に対して門戸を開き、自らも世界に出て行く。競争に勝ち抜くというより、世界と共生していく発想が要求されているとする。論者たちは必ず、開国への直接的な阻害要因である構造的な問題とは別に、間接的・実態的な阻害要因として意識の問題を指摘してきた。
産業・企業だけでなく日本人全般の生活・意識、さらに在日外国人と直接かかわる地域(自治体)においての内なる国際化、異質なものを受け入れる環境の整備が急がれるというのである。
外国人の参加強調の経団連
それらのほんの一例として、どこかの企業の付設研究所や学識者らの問題提起ではなく、経済界の総本山である経団連(社団法人・日本経済団体連合会)の「外国人受け入れ問題に関する提言」(2004年4月)を見ておこう。
提言の基本的な考えは、2025年までの労働力人口の減少が潜在成長率を押し下げる程度は年平均0・2%程度であり、イノベーションを着実に進めていけば十分克服できるとの認識から、労働力の埋め合わせのために外国人を受け入れようとするものではない。あくまで、「多様性のダイナミズムを活かし、国民一人ひとりの付加価値創造力を高めていく、そのプロセスに外国人がもつ力を活かす」ことを主眼にした。
そこで「外国人の地方自治への参加も課題である。現在、国会には永住外国人地方参政権法案が提出されているが、地方自治体が独自に、外国人の意見や要望を直接聞き行政に反映させる取り組み」に注目、川崎市の「外国人市民代表者会議」(96年12月設置)を挙げ、各地の地方自治体は、「こうした先進事例を参考としつつ主体的に取り組み、外国人の声を地方行政に反映させていくべきである」と強調した。
この提言での「永住外国人地方参政権」の扱いは微妙だ。「外国人会議」をその代替制度と見なし、間接・消極的な否定のニュアンスを込めたとの見方も成立しよう。しかし、「活力と魅力溢れる日本をめざして」「外国人と共生する市民の意識を醸成」することを重視する提言の文脈から見て「外国人の地方自治への参加」を追求すべきとの提言は本心であり、選挙権付与の実現を視野に入れたものと解される。
地方議会が母屋だとすれば、「外国人代表者会議」はいわば小さな離れだ。その離れと母屋は条例で、いつ変更されるか分からない頼りない回廊で結ばれている。定住であれ永住であれ、同一地域で代を継いで生活する外国人がいつまでも離れや、中二階ならぬ半地下に隔離された居候扱いでは、自治参加の本旨に背くことになろう。
外国人住民が目立って増えたか減った場合は、代表者会議の縮小・廃止もしくは拡充が問題になり、国籍やそれにともなう文化・価値観がいっそう多様化すれば自ずと、代表者の選抜や会議運営の方式が複雑化する。外国人住民の実態によって、在り方が揺れる外国人会議は不安定な存在であり、その代表性が問われ続ける。
外国人会議は一時的には有効だ。だが、選挙権付与に替えて永続させようとすれば形骸化するほかない。最も安定した自治参加の方式として結局は、ひとり一票の地方選挙権に行きつく。永住外国人には選挙権で、その前段階の人々には外国人会議で、意思反映を図るのが合理的だろう。
大切な味方を敵にまわす愚
これまでの第3の開国論は主として、外国人を活用する立場のみから論じられ、外国人の自尊心は顧みられていない。地方選挙権を求める永住外国人を、日本の内なる国際化を進めるカウンターパートと見る視点が欠落している。第3の開国を提唱する人たちは、日本社会が活用すべき外国人の活力の源泉は、当の本人たちの自尊心と深く結びついていることを思い、安保阻害論など付与反対の理屈がいかに永住外国人を傷つけているか、警鐘を鳴らすべきだ。
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アイデンティティ・ポリティクス
内側に向く危険な刃
冷戦終結とグローバリゼーションによって、日本でも政治・経済・社会構造が流動化した。世界規模での人的移動が大きな影響をもたらし、これまで心身を預けてきた共同体や、価値観の揺らぎに対する不安が募り、自身のアイデンティティに対するこだわりを強くさせている。
自分を守る境界線や枠組みが不透明になったと感じ、変化が急速で先が見えないと考える人々は、防衛意識によって狭義の伝統にしがみつこうとし、異質や異種を排除して《古き良き日本》への回帰を志向したがる。
これに対し、外国人受け入れ体制の整備を提言する経団連や第3の開国を提唱する人々は、グローバリゼーションを国力活性化に生かすべきであり、外国人との共生を避けられないものとして、新たな《国民統合》の仕組みづくりを加速させるべきだとする。
アイデンティティには本来、攻撃的な側面と非攻撃的な側面がある。世界史を見れば宗教、文化、民族の違いで対立したことより共存した例が圧倒的に多い。
ボスニアに象徴される内戦の連続で、20万人に近い死者と250万を超す難民・避難民を出した旧ユーゴスラビアでも、フツ族とツチ族の内戦が大規模な虐殺を招いて死者50万人超、難民80万人を生んだルワンダでも、宗教や民族を超えて共存してきた。
しかしまた、さまざまな思惑に絡め取られやすいことも歴史は証明する。既存の諸構造が流動化しているのに新たな理念が確立できない状況は、民族・国民の誉れの真の代表を自認もしくは僭称する者たちが、アイデンティティを特定の目的に動員し、異質な他者を排撃しようとする動きを生みやすい。
日本にもそうしたアイデンティティ・ポリティクスの傾向は根強くある。外国人を公然と敵視する言動を続け、外国人の騒擾を想定して陸海空の自衛隊を動員した石原都知事のパフォーマンスはその典型だ。永住外国人地方選挙権をめぐって、「朝鮮人は出ていけ!」と連呼し、付与推進議員に恫喝を加えるウヨクを煽り、永住外国人が日本の安保を阻害する存在であるかのように決めつける付与反対論者も同類である。
日本人を自分たちの価値観に基づく《日本人》として固めるために外国人をスケープゴートにし、永住外国人をますます周辺に追いやろうとする言動を攘夷と言わずして何と言うべきか。これは必ず、過激分子が桜田門外で井伊直弼を襲撃したように、日本社会への刃となり、第3の開国を遅らせて日本の未来を危うくする。
アイデンティティ・ポリティクスによる民族浄化の悲惨さは、同一性を異にする集団間の殺戮においてよりも、アイデンティティの同意メカニズムに抵抗する人たち、要するに権力者と同一性を有しながらその支配下に入ることを拒否した人々が、より多く犠牲になったと報告されている。
《売国奴》に全体主義彷彿
これを日本になぞらえるならば、「アイデンティティの同意メカニズムに抵抗する人たち」は、石原都知事や強硬な選挙権付与反対者らが、意に沿わない人々に好んで投げつける悪罵、《反日日本人》《非国民》《売国奴》と同義ということになる。全体主義時代のレッテルとまったく同じだ。
朝鮮は欧米列強を水際で排撃することにいったんは成功し、開国した日本を洋夷に屈したとして無視した。滅亡の道を進んだ主要な要因の一つに、このような徹底した鎖国・攘夷政策がある。一方の日本は、攘夷から開国に転じて明治維新を成功させた。グローバリゼーションに積極的に対応する韓国と、そうではない日本の今日の姿は、150年前とあまりにも対照的である。
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桜田門外の変
1860年3月24日(安政7年3月3日)、大老井伊直弼が桜田門外で水戸浪士ら18人により暗殺された事件。勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことや安政の大獄による弾圧などに憤激して起こしたとされる。
井伊大老は強引に「将軍継嗣問題」を処理したほか、1858年に日米修好通商条約に調印、続いて英・仏・蘭・露とも同様の条約を結んだ(安政の5カ国条約)。安政の大獄は、これらに反発した公卿や志士たちに加えた弾圧である。桜田門外の変によって幕閣主導路線が頓挫し、幕府の権威が失墜したことで尊皇攘夷倒幕運動を激化させることになった。
滋賀県彦根市では2008年6月から10年3月末まで「井伊直弼と開国150年祭」を開催し、大老として日本を開国に導き、諸外国との交流の道を開いた彦根藩主を再評価してきた。昨年、開港150年祭を挙行した横浜市の西区の丘に、井伊直弼の銅像が港を望んで立つ。
(2010.3.17 民団新聞)