掲載日 : [2010-03-17] 照会数 : 7712
<寄稿>在日1世追憶の旅 下関港、筑豊炭鉱
[ 三浦知人さん ]
三浦知人(川崎市ふれあい館副館長)
朽ちゆく差別・戦争体験
生活史継承へ誓い新たに
在日一世の足跡をたどる下関、筑豊の旅に同行する機会を得た。解放後、下関から帰国した経験をもつ2人、炭鉱労働の経験のある一人の計3人のハルモニの懐かしい場所をいっしょに回った。差別と戦争の現代史を学ぶ宝庫をめぐる思いで………。
「死人権」を放置
山口で炭鉱生活を送った金ハルモニは、選炭の仕事を思い出しながら、私たちに身振り手振りでかつての労働内容を教えてくれた。結婚するまで働いた萩森炭鉱は、影も形もなくなり、金ハルモニは案内してくれた先生に、「本当にここが萩森炭鉱跡なのか」と詰め寄った。
金ハルモニは「当時の想いを胸に、泣きたかったけど、何もなくなってて、泣くに泣けない」と悔しさをあらわした。筑豊を案内してくれた犬養光博先生は、「死人権が奪われている」という言い方をされた。「慰霊碑は、単に魂を慰めるというよりは、亡くなられた方々の怒りや悲しみ、悔しさを想い、私たちが闘いを継承する場である」というようなことをおっしゃられた。本当にそのとおりだと思う。
宇部長生炭鉱では、海底炭鉱の落盤で、130人余の朝鮮人が犠牲となった。草むらの道なき道を分け入り、やっと坑道につながる階段があるのみで、空気取り入れ口の煙突状のビーヤが、海上にただ2本突っ立っていた。
下関では、山の高台に帰国を待つ朝鮮人が暮らし、トイレもないので、みんな横道で用をたし、「トングルトンネ」(ウンコの横道村)と呼ばれたという話をうかがいながらその一角を歩いた。手作りの味噌メジュが軒先に干してある光景は、話には聞いてはいたが、空気の汚い川崎ではお目にかかれないものであり、大騒ぎして喜んだ。
同行した文ハルモニは、この街で小学校に通い放課後、親が仕事に行っている間、「昭和館」という「内鮮融和」の救護施設で過ごしたという。いまやその場は、石柱が残るのみではあるが、当時の様相をハルモニの話で浮かび上がらせることができた。街自体がまさしく生活文化資料館である。
筑豊、日向墓地では、無造作に置かれたただの石に、強制労働の末に命を落とし、さらにペット以下の扱いをされたまま「死人権」が放置される様をまざまざと見せ付けられ、みんなでアリランを歌い、死者の思いを受け継ぐ時をもった。
歴史の宝庫でありながら、どこもかしこも、案内してくれる人がいなければ、何もわからない場所ばかりである。りっぱな田川市石炭・歴史博物館では、朝鮮人の「朝」の字もない。ほとんどの在日が初めて踏んだ日本の地である下関の関釜連絡船の港跡、駅跡には、表示板のひとつもない。 ハルモニたちが働いた炭鉱跡も藪に包まれている。炭住も取り壊し寸前の1箇所を残すのみとなった。差別と戦争の時代を生きた在日1世の想いを受け継ぐ文化遺産が、朽ちていく悔しさ、風化していくむなしさを感じる。川崎のハルモニたちがどんな思いで下関や炭鉱を訪問したのか。「泣きたかった」とつぶやくハルモニたちの悔しさを知ってほしい。
下関は、多くの在日にとって、日本の生活史の出発点、もっといえば、日本の多文化社会を切り開いた在日コリアン1世にとってはじめの一歩の地ではなかったか。戦争に翻弄され、辛くても、歯を食いしばって厳しい労働と生活に耐えた時を過ごした炭鉱時代ではなかったか。
植民地支配から100年の今年、差別も戦争もない時代を願う多くの市民が、この地を訪れ、在日1世の生活史に想いを馳せてほしい。そして、韓国の旅行者もたくさん来るこの地域が、多くの犠牲者の前に、差別と戦争の歴史を繰り返さないことを後世に繋ぐ場となってほしい。
(2010.3.17 民団新聞)