掲載日 : [2010-04-14] 照会数 : 10253
フラッシュ同胞企業人<47>韓国人卒業生1万人に
[ 1949年東京生まれ。85年に赤門会日本語学校開校。2005年に学校法人新井学園に組織変更。3男、孫1人。 ]
1千人在籍の日本語留学生
赤門会の朴時賛理事長
韓国人の多住地区、東京・荒川区の日暮里。2カ所に校舎を構える。
14カ国から入学
「現在の定員枠が1250人まで認められ、在籍者は約1000人。アジアを中心に中国やモンゴル、ベトナムなど14カ国に及ぶ」。1〜2年間のコースを終え、9割以上が大学など上級学校に進む。6日の入学式には350人が出席した。教職員数は96人、09年の業績は約7億円。
東京生まれ。学校を出てから父親のプラスチック業を手伝うが、「もっとやりがいのある仕事はないか」と模索した。83年に中曽根首相が、日本への留学生を21世紀までに10万人にする構想を打ち上げた。
「この計画を聞き、自分も韓日の懸け橋役になれるのでは」と思いついた。「当時、韓国から日本へ日本語を学びに来るのは手続きが大変だった。しかし、百聞は一見に如かず。韓国の未来を担っていく若者たちに日本を見る機会を提供したかった」
85年に東大赤門前に赤門会日本語学校を開校。資金が少なく、昼間空いていた進学塾に頼みこみ、一角を間借りした。教師2人、学生7人のスタートだった。
東大周辺は教育環境に恵まれているものの、家賃が高く、交通の便が悪い。学生たちは通学に苦労した。そこで89年に日暮里へ校舎を移転。92年にソウル事務所、94年に釜山事務所をそれぞれ開設し、学生の受け入れを本格化した。04年には上海事務所を設けた。
2000年までの15年間は学生を韓国人に限定していた。「当時の卒業式には太極旗と日章旗を掲げた。いまや韓国人の卒業生は1万人を超し、各界で活躍している。国際化時代とはいえ、建学精神を忘れず、韓国人主体の運営を続けたい」。現在、学生の半数を韓国人が占める。
「80年代から90年代半ばまでに入学した学生たちは貧しい生活に耐えながらも、ハングリー精神にあふれ、アルバイトしながら学ぶ頑張り屋が多かった」と振り返る。
一方で、「忘れられない人」がいる。01年にJR新大久保駅で日本人を助けるために犠牲になった李秀賢君だ。「本校の学生でとても前向きな青年。韓日の懸け橋になることを強く希望していた。さらに日本で勉学を続けるため、ビザを延長。その矢先の事故だった…。彼の死を無駄にしてはいけないと、日本政府などに訴えた」
彼の勇気ある行動は両国で大変な反響を呼んだ。寄金をもとに「アジア奨学会」が設立され、毎年40〜50人に奨学金を授与している。
05年に学校法人新井学園に組織変更。「学校法人として認められることが長年の宿願だった。以前は学割がなかったり、学生たちに大変な負担をかけたからだ」
日本の同窓会も
今年は創立25周年。「これを機に日本にいる卒業生に呼びかけ、7月に同窓会を発足させたい」。4月からは日本語教師養成講座を新設。「在日同胞も資格を」と呼びかける。
10月に、ビジネス日本語講座を開講する。「日本もようやく就労ビザの規制緩和に動く。講座の受講で、企業への就職が門戸開放される。人口減少が続く中、アジアから優秀な人材を確保することが緊要」と強調する。
◆赤門会日本語学校=東京都荒川区東日暮里6‐39‐12(℡03・3806・6102)
(2010.4.14 民団新聞)